勾玉日記

黒川 和嗣のブログです。

“グランドビジョンによる、国民のメンタルケア”

 黒川 和嗣(くろかわ かづし)です。巷での感染症関連の議論には相変わらず辟易としてしまっています。緊急事態宣言の人流抑制論や医療逼迫の対策などは “1年前に終わっている” テーマです。結局のところ、相関関係や効果測定などの検証が不足している点や、検証結果が周知されないことが堂々巡りを演出してしまっているようです。

 

 ただ、ワクチン接種に関しては職域接種などを用いて、医療関係者を可能な限り組み込む構造を上手く作っている印象はあります(6/30に一時中止となりましたが)。国からの要請だけでは集められない医療関係者も企業ベースからであれば協力範囲を広げられ尚且つ、行政ではできないスピード感を持って進められるという仕組みでした。また、医療従事者や介護関係者以外のワクチン接種は、年齢で優先順位付けするよりも接種人数を増やすことが集団免疫へと近づく鍵となります。当然ながら、本来は医療制度改革が理想ですが、政治的しがらみによって現実的でない今、実務主義である菅政権はベターな方法で十分に対策をとっているように思います。

 

 以前から指摘しているようにエモーショナルな “仕方がない” も  “頑張っている” も避けたい思考ですが、政治においてはベストではないけれど実現可能性の高い“ベターな選択”を取るしかできないことも往々にしてあります。今後もメディアや野党、各知事はエモーショナルな扇動と非現実的な批判を行い、ゼロリスクを念頭に置いたリバウンド対策の議論を繰り返すでしょうが、菅政権は曖昧な批判を曖昧にかわしつつ、実務を中心にベターな対策(ワクチン接種)を着実に進めることで議論を収束へと向かわせるのではないかと思います。

 

 さて、このような堂々巡りよりも次に注目しておきたいテーマはグランドビジョンによる国民のメンタルケアです。

 

 中国共産党100周年やバイデン大統領の演説など、他国では感染症対策と同じく “グランドビジョン、感染症後の世界にはどのような希望があるのか”を語ることで抑圧され続けた国民のメンタルを支える動きが見られています。日本でも、地域によっては約半年近く緊急事態宣言下(及びまん防下)にあった地域もあり、業種別では経済活動の自由が1年近く制限されているケースもあります。その中で職種や正社員と非正規社員、高齢者と若年層、高所得層と低所得層などの格差が顕在化し、不満や不安が高まりやすい環境になりつつあります。このような環境が強まれば、失敗に厳しいキャンセルカルチャーや、検証や本質を見失った憂さ晴らしの批判といった “変化に対応できない世論” が形成されてしまいます。それを避けるためにもこの感染症対策が緩和された先に国家として何に挑戦をし、どのような成果(希望)を得られるのかというグランドビジョンを示すことが重要です。

 

 しかし、先の会見(6/17)では宣言解除後に蔓延防止処置を行い、そしてリバウンドの懸念による注意喚起、さらに再宣言の可能性と、トンネルの先は再びトンネルであるかのような内容で協力への意義も効果測定も曖昧なまま、国民に根性論を迫る内容となってしまいました。確かに世論の感情論に対する回答には根性論のような内容で答えるしかありませんし、感染症対策は最優先課題ですが今後、少子高齢化や抜本的な組織改革に直面する日本だからこそ、国家のトップとしてグランドビジョンを示して欲しいところでした。世論の空気感を大きく変え、私たちの生活を少しでも豊かにするには、抑制的な指針よりも将来性を見据えたグランドビジョンの共有が求められます。

 

 本日はグランドビジョンを考えるにあたり必要となる世界各国のグランドビジョンと、日本のグランドビジョン、そして懸念されるボトルネックについて考察を行います。いつ抜けるか分からないトンネルの中で、不安を抱くよりも視線を広い国際社会に向けながら、次のビジョンについて語り合いましょう。

 

■20%の低下をみせる、西洋のグランドビジョン

 先般の日米会談、G7、NATOにおける根幹を成すテーマは “自由で開かれたインド太平洋構想” です。この言葉はインド洋から太平洋までを繋げる構想を掲げ、2016年に安倍首相がアフリカ開発会議で提唱したことから広がり、西洋諸国のアジア地域へのコミットメントを引き出すきっかけを作りました。特にイギリスのイグジットや米国内の暴動、感染症対策の専制主義優位論、先進国の財政懸念などによって西洋諸国独自で世界各国を束ねるという従来の構造が難しくなり、アジア市場や西洋諸国間の連携強化が求められていることもこの思想を後押ししています。

 

 他の記事でも語られているようにG7のGDPは1992年頃の68%(世界割合)以降は低下傾向にあり今では47.5%でさらに、民主主義国・地域は87(2019年)に対し非民主主義が92と上回っているため、先進国間の連携を強化しつつその輪を広げる政策が急務となっています。

 

 そのため、民主主義と専制主義の対立軸で語れば語るほど、実際は自らの首を絞めることになり、今はそのジレンマを打開するグランドビジョンを示せるのかにあります。何より途上国の内政、経済力、軍事力、地政学、宗教、歴史、慣習など複合的な要因を鑑みた場合、必ずしも民主主義や自由主義、資本主義が正義ということでもないものですし、そのような踏み絵を迫られるほど賛同し難く、視点を途上国に移せば “横柄な西洋諸国が自国優位なルールを強要している” ようにも見えてしまうものです。

 

 このような内情があるからこそ今は、途上国のコンセンサスを得やすい感染症の中国起源説や領海の現状変更を強調しつつ、途上国の賛同が難しい人権や環境問題では、中国を発展途上国から除外し“先進国として”国際秩序に批准するように迫る構図を目指しています。その先には、透明性の高い先進国の経済圏の庇護と一定の国際協調に(形式上でも)批准する中国という二つのエコシステムを世界各国に提供するというグランドビジョンがあるでしょう。

 

 西洋諸国にとっても真に中国や専制主義を排除することよりも、どこかで折り合いをつけてその利益を享受する体制が好ましいはずで、日本は “自由で開かれたインド太平洋構想” の提唱者として西洋諸国とアジア諸国とのパイプ役を担う立場を目指すことが望まれます。その意味では、先日の出入国在留管理局問題は懸念事項でもあります。

 

■100周年を迎えた、中国共産党のグランドビジョン

 こちらは過去の記事と重複しますが、“中国の民主化や西洋諸国とのデカップリングはあり得ない” という点、そして中国共産党にとってのグランドビジョンは “世界の中心とする中華思想” が軸である点を押さえておく必要はあります。

 

 その上で、今般の “民主主義 対 専制主義” はメッセージの分かりやすさと共に、対露政策の比重が強い欧州をはじめ、民主主義各国のコンセンサスを得やすいテーマとして全面に出ていますが実際の相互依存関係と中国共産党の思想を鑑みれば、全面戦争のような扱いには疑念が残るものです。

 

 日本を含む民主主義国の本質的テーマは、中国共産党と国際社会の間に越えてはならない明確な “デッドライン” を設け、中国共産党にとって国際秩序に批准することが得である(もしくは統治を揺るがす損失がある)環境を作り出すことです。この一つが、東・南シナ海の軍事抑止力(デッドライン)や、中国共産党の民主化ではなく習近平氏の権力構造に焦点を当てた体制変更(統治的損失)などを行うことです(“国際社会から眺める「ニヒル的諦めの中で」2/3")。

 

 現在の中国共産党は国力も増し、発信内容は極めて強気ではある反面、共産党創立100周年、北京オリンピックの2大イベントそして、国家主席の任期撤廃後初の任期切れを迎える習近平氏にとっては権力基盤作りで非常にナーバスな時期ではあります。香港や台湾の統治改革は成果として急ぎたい一方、民主主義国とのデカップリング論は体裁上だけに留め、従来通り先進国との相互依存性を維持している間に、発展途上国との関係を深める動きを軸とするはずです。つまり、中国のグランドビジョンは短絡的な全面戦争でも世界支配でもなく、自国の利益を最大化し続けて中国共産党の権力基盤をより一層磐石なものにすることでしょう。

 

 このグランドビジョンを眺めているとデジタル人民元の役割がより鮮明に見えるように思います。エルサルバドルがビットコインを自国通貨にしたように、金融システムが脆弱な発展途上国では手間も手数料も維持費も低いデジタル通貨は魅力的なものです。また、資源の乏しい国にとってデジタル空間の価値は高く、リアルの金融システムに限らず仮想空間のツールにもそのまま転用可能ともなります。もちろん、デジタル人民元=世界の基軸通貨を代替するとまではいかないでしょうが、少なくとも途上国の成長に貢献するツールにはなり得るということです。デジタル化の障壁とされる通信インフラにしても、中国が取り組む宇宙産業は衛星コンステレーションのコスト削減につながります。

 

 今の中国は国際秩序に挑戦する国家という側面で語られがちですが、途上国からすれば金融、デジタル、宇宙と発展途上国の成長を牽引する包括的エコシステムをグランドビジョンに組み込んでいるともいえます。

 

■日本のグランドビジョンとボトルネック

 西洋諸国の国際協調による個々の衰退を補うグランドビジョンと、中国の発展途上国を取り込むことで権力基盤を磐石なものとしようとするグランドビジョンについて考察してきました。これらを踏まえ日本国内に視点を戻した時に考えられる大枠のグランドビジョンは、軸足を国内から国外の “開かれたインド太平洋構想” へ移行した上で、短期的には国防関連の法整備と国際水準のデジタル化、中期的には少子高齢化先進国として活用法の提案とグリーンエネルギー化、長期的にはCBDC(Central Bank Digital Currency)と宇宙産業でしょうか。

 

 “開かれたインド太平洋構想” は今後、グローバル社会を越えてシームレス社会(デジタル空間やメディカル、経済安全保障などで多国間連携が必須となる社会)へと向かう中で最重要テーマとなりますし、アジアの民主的先進国として存在感を発揮する大きな足掛かりにもなります。しかし、国際社会を牽引するには軍事力として国際秩序形成へのコミットメントを示す必要があり、国防関連の法整備は必須事項となりますし、国際的人流や越境IDの管理などから国際水準のデジタル化(セキュリティ含む)も必須となります。

 

 残りの中長期的戦略では他国より優位性の高い要素を軸として、集中投資を行うことが求められます。少子高齢化では、“悪”という文脈で語られがちですが、デジタル化による生産性向上と日本に眠る約2600年間の文化(自然、工芸品、思想、食文化)による高付加価値産業を組み合わせれば、それほど悲観するものでもありません。また、少子高齢化先進国として解決策を他国に提案できる機会でもあります。このように、世界の潮流と国内の課題を並べてみると、希望的グランドビジョンはあるものです。

 

 他方、日本のグランドビジョンを実行するにあたりネックとなる要素は憲法改正に国民投票が必要な点と、ステークホルダーへのコンセンサスを求めざるを得ない政治構造があります。大阪都構想時に指摘しましたが、中長期的なマクロ視点を必要とする政治決定を民意に委ねることが、必ずしも正しいとは言えないと考えています("大統領選と都構想の先に「溶解する民主主義。」1/4")。感染症対策でも、効果測定やエビデンス以上に世論の感情的な影響力が政治へ影響を及ぼしています。私個人としては、自由主義ですし小さな国家であって欲しいと思うほどです。それでも、都構想や感染症対策の状況をみる限り、国民に中長期的な政治決定を委ねることにリスクとコストを感じざるを得ません。国民投票改正案も民意を汲み取るといえば聞こえはいいですが、政治家の責任回避(問題の先送り)にしか写らないものです。

 

 また、ビジネスでもすべてのステークホルダーへの還元が謳われていますが、政治に於いてステークホルダーが多すぎると何も決まらない、当たり障りのいいゼロリスク論、現状維持論の3つの罠に陥りがちです。特に有事対応でも顕在化した通り、権力集中を避けるあまりしがらみによって柔軟性や機動性、適切な判断力を失ってしまっています。民意を反映させ民主主義の健全性を問うのであれば、長期戦略の政治決定への参加や必要な改革を阻む権力構造ではなく、癒着や利権による硬直化を防ぐための透明性と選挙改革が先に求められるでしょう。

 

 とはいえ、現実的に国民に国家戦略の要となる要素を民意に任せ尚且つ、ステークホルダーへのコンセンサスを求めるのであれば今こそ、グランドビジョンの共有が鍵となります。そして政治や社会を離れて、私たち個人の生活やキャリア、景気に対する不安を緩和するために希望的な将来像をイメージし、活気のある生活を国全体で取り戻すことが求められるフェーズにあります。




 本日はここまでです。オリンピックでも意義や安全性の根拠など、ビジョンを共有することが大切でしたし、次に控える9月の選挙でも将来のビジョンが鍵となります。そして政府からの明確なグランドビジョンが提示されなかったとしても、各個人、もちろん私自身にも自戒の念を込め、批判的な反応よりも今後のグランドビジョンをどのようにイメージし発信するのかが、感染症後の社会を “希望なのか” “不安なのか”を決める要素となります。

 

 

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“ワクチン接種効率のアーキテクトを考える3つの柱”

 黒川 和嗣(くろかわ かづし)です。都市部の緊急事態宣言の延長につづき、地方での宣言及び蔓延防止措置が決定されました。これは去年の4月に都市部を閉鎖した結果、地方に感染が広がる現象と似ているようで結局のところ、やはり根本的な医療体制の拡充がなされない限り何度でも繰り返されてしまうということでしょう。特に医療体制も整えない状態で事実上、一類感染症より強い“指定感染症”となっていることは、医療逼迫のネックとなったままです。

 

 ただ、緊急事態宣言関連の議論はこれ以上行っても堂々巡りで、前回指摘した内容でおおよその問題点は網羅されていると思います(アンコントローラブルに陥る今「緊急事態宣言の本質を問う」)。政府としても支持率や支持組織など“政治的理由”によっていま以上の対策や改革を打ち出すことができない状態でしょう。それに元々、緊急事態宣言による人流抑制はワクチンや治療薬が普及するまでの一時処置ですので、ワクチンが流通した段階で、人流抑制から既に“ワクチン接種のアーキテクト”を議論するフェーズに移行しています。この段階では緊急事態宣言の内容や人流抑制の議論、感染者数よりワクチン摂取率の生産性向上が注視すべきテーマとなります。

 

 それに伴い今後は、“なに県でなん人が接種した” “どのようなトラブルがあった” など、感染者数に変わって接種数と自治体の能力評価をメディア行い、接種が順調に進む自治体をもてはやし粗探しと接種競争の様相を呈するでしょう。しかし、そのようなミクロ的なトラブルや個別のスピードなどはまたしても本質を見失うこととなります。

 

 本日はワクチン接種のアーキテクトを考える上で必要な前提要素を軸に、接種スピードがもたらす成長戦略への影響を考察します。

 

■ワクチン接種のアーキテクト

 ワクチン接種の議論を進める上で重要なポイントは、“持っている制約”“ゴール設定”  “リスク算定”を共有することです。まず、“持っている制約”とは人材不足です。日本では医師会や法的な問題で迅速な人材確保が行えないため、“少ないリソースで効果を最大化すること”を前提条件として議論や戦略を構築する必要があります。もちろん、自衛隊や歯科医師など政府も可能な限りの動員を考えていますし、医師への報酬を積み上げる形での確保も地方自治体では始まっています。このような根本的に人材不足を補う努力は続けることとなりますが、今までの感染症対策をみていてもドラスティックな改革には至らないと思われるので、“人材は少ない”という制約が大前提となります。

 

 次にゴール設定ですが、簡潔に表すと“日本全体で集団免疫を獲得して医療の逼迫を抑制する”ことです。文字にしてみると当たり前ですが、ここで注意してほしいことは、ワクチン接種率が高ければ良いわけでも、各自治体ごとで接種率を競うことでもないということです。詳しくは後述しますが、医療の逼迫を抑えるには、逼迫度が高い地域から優先して接種が必要でしょうし、さらには高リスクであり尚且つ社会に欠かせない産業が優先されこととなります。なので、今の日本が行っているような公平平等に、全ての自治体にリソースを分配し、接種を始めるのではなく有事対応として取捨選択を行う必要があります。このゴール設定が共有されていなければ、一部地方の接種率で一喜一憂したり、少ないリソースの分散によって日本全体の接種速度を遅らせてしまうことになります。

 

 最後にリスク算定ですが、現状の感染経路を鑑みた時にどの経路を防ぐことが効率的に感染抑制を行えるのかを分析することです。このリスク層に含まれるのは医療従事者は当然として介護施設と大都市圏の3点です。介護施設はまさに高リスク者のセグメントでありながら医療現場より感染対策は脆弱で、ファクトとしても第4波の被害が顕著に表れている層です。海外でも介護施設には先行してワクチン接種が提供されていますし、ここを予防することが医療への負担軽減や死亡者数の減少に直接的な影響を与えるでしょう。

 

 また大都市圏への優先接種ですが、こちらは今回の地方への感染拡大を鑑みても必要性は高いと思われます。去年も同様でしたが、都市部の閉鎖は地方への拡散につながる傾向があり、密集する都市で感染が醸造され地方へ拡散するという構造を断ち切る必要があります。つまり感染経路、医療の逼迫率、経済規模の側面からまずは都市部を押さえ込む戦略が日本全体の負担軽減につながる効果的な戦略となります。

 

 この“持っている制約”と“ゴール設定”、“リスク算定”を軸に、中央と地方の連携、地方自治体の広域連合としての連携、リソースの一極集中、そしてあまり希望はありませんが人材規制の緩和を行えるかがワクチン接種のアーキテクトを議論する上での本質的テーマです。

 

■接種の遅れがもたらす余震

 ワクチン接種のアーキテクトに加え意識しておきたいテーマは、ワクチン接種が単なる予防接種の枠組みではなく感染症対策全般に続き “国際的プレゼンスに関わる問題” である点でしょう。この問題はどの国にとっても“当たり前”ではありますが、日本にとってはより一層クリティカルなテーマでもあります。

 

 例えば今回の感染症では世界的に雇用や所得が減少傾向にありますが、日本はさらに補償額が事業規模にそぐわず、支給も滞っている状態にあり、元々懸念されていた景気後退や出生率が悪化しています。他方で、デジタル技術の実装や宇宙産業、グリーンエネルギー開発、軍事的安全保障で他国より大きく遅れをとっている状態なので、将来的な巨額投資が必要な時代を迎えるにあたり大きな足枷となってしまいます。

 

 まだこれが全世界的であればいいのですがご存知の通り、米中英は先んじて進んでいます。これによって、米中は言わずもがなですが、ブレグジットを行なった英国もグリーン産業に於いて優位性はあり、軍事力を含め東アジア周辺諸国へのプレゼンスを高めることとなります。日本では原発にも根強い反対が存在する中で、電力消費の高いDXを推進する必要に迫られつつ同時に、脱炭素へ向けて再エネ投資を加速させながら後方では、中国と北朝鮮への対策として軍事整備を行いサプライチェーンの見直しをしなければならない状態です。

 

 国内の災害、教育、少子高齢化、社会保障など感染症以前のテーマを踏まえると、“ワクチン接種の遅れ”が将来的に国民生活を脅かす大きな余震になる可能性はあるでしょう。無闇に恐怖扇動を行うつもりはありませんが、リスクを正しく見積もることが重要だということです。またこれらは決して、遠い外交の話しではなく、感染症が落ち着き再び門戸が開けば個人の生活に直結するテーマとなります。

 

 もちろん私が危惧せずとも、日本も世界も紆余曲折を経ながら成長曲線には向かうでしょう。その中で生き残る人、失われる人がいることは市場原理として健全です。しかし、今回の対策で見受けられるような無自覚の悪平等意識によって、不用意な損失を被ることは国家としても、産業としても、個人としても最小限に抑えることが望ましいものです。少なくとも一人でも多くの方と課題を共有することは課題解決へと近づくと考えています。




 本日はここまでです。世間では抜け駆け接種問題や感染症対策関係者による会合、生活必需品外の産業自粛、オリンピック反対論など、ミクロの事象で“平等であること”が強く意識されています。ただそれは本当に必要な平等なのか、それとも感情論として合理性や戦略のない“平等”なのか、準戦時下において懸念すべきテーマなのかは問わなければならないでしょう。以前の記事でも書いたように、政治の世界を含め世の中では取捨選択 “Trade-off”で成り立っており、特に緊急事態においてはリソースや権限を一極集中することで将来的な豊かさを守り、国民全員が恩恵を享受するものです。

 

 悪平等意識を捨て、足の引っ張り合いを止めること。有事であるからこそ、感情的価値観を離れて相互補助関係を社会全体で意識する必要があるのではないでしょうか。

 

 

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ー参考・出典ー
 
 

“アンコントローラブルに陥る今「緊急事態宣言の本質を問う」”

 黒川 和嗣(くろかわ かづし)です。先日3度目の緊急事態宣言が発令され、SNSをはじめメディアでは多方面での論争が巻き起こっています。1つ目は、発表から発令までの期間に余裕がないこと。これによって、多くの企業はすでに費用が発生している案件のキャンセルを行ったり、在庫の廃棄をともなう予定外の売り上げ激減に見舞われています。この予定外の売り上げ激減は通常の事前休業とは違い、各種契約先との調整やお客様対応、宣伝広告費の赤字化など見えにくいコストを内包しています。2つ目は、今までの緊急事態宣言より広範囲にわたる業種の規制を行っていることに対して、基準の曖昧さと効果の有効性に問題を感じていることについてです。国も地方も責任や権限の所在が曖昧であるがゆえに、安全側に過剰に舵をきる傾向にあります。特に東京都ではその傾向が顕著で、国の要請以上の規制をかけようとして混乱を招いてしまっています。

 

 そして3点目、こちらは本質的な論点ですが、緊急事態宣言で国民負担を強いる前に医療リソースの拡充を行う必要があるという指摘です。私も全くの同意見で、必ず感染のリバウンドは発生しますし、ウィルスの特性からすると感染力が強くなるものなので、医療環境を改善しなければ何度でも緊急事態宣言は発令し続ける必要に迫られます。そして、せめても状況を改善するにはワクチンの普及が鍵だったのですが、日本の100人あたりの接種完了人数は4/23現在で0.67人(英16.23人、米国26.63人)とほとんど進んでない状態にあります。もちろん、最善の努力はなされているでしょうし、他国と比較して遅いことをあげつらっても意味がありません。しかし、その内情が医療側による国家介入の慎重論や規制を遵守する平時対応の結果であるにもかかわらず、国民には“準戦時下”としての犠牲を迫ることに疑念が生じてしまいます。

 

 医学的には変異株対策として、政治的にはその先にあるGW対策とKPIであるオリンピックへ向けた布石として、以前の“感染リスクを集中的に抑え込む”という対策から、“人流を止める”ことを目的とした対策に変更していますが、対策の強さと比例して先の通り政策への疑念と生活ストレスの高まりをともない、国民の中では感情的な強い反発を招いてしまっています。

 

 私自身も正直に申し上げると強い憤りを感じているのですが、とはいえ感情的な批判と論争では線引きが重要ですし、何より“命のためには仕方がない”といったような日本的情緒性で終わらせないためにも、本日は感染症対策と緊急事態宣言にある本質について、整理しておきたいと思います。

 

【緊急事態宣言関連記事】

・20/03/18投稿 "COVID-19 国民感情が引き起こす作用 "
・20/03/29投稿 "ディストピア的出口戦略「国民感情が引き起こす作用」"
・20/05/02投稿 ”自粛という延長と延命の狭間「国民感情が引き起こす作用」”
・21/02/02投稿 “緊急事態宣言の先に「本質への回帰」”
・21/03/15投稿 “エモーショナライゼーションされる日本「ニヒル的諦めの中で」”  

 

 

■感染症対策の本質は “習性と欲求と副作用”

 先の菅首相の会見や人流を止める対策を軸としている点から、今回の緊急事態宣言が感染力の高い変異株の押さえ込みにもとづく指針であることは伺えるでしょう。つまり、“変異株によって陽性者が増えると高リスク者層への感染リスクも高まり重症者も増加する、なので陽性者の増加を止めることが重要である”というロジックに基づいています。

 

 もちろん、これは感染症対策では“理想的”な条件であり、陽性者数の押さえ込みができるのであれば財政としても社会的副作用の低さとしても優れています。なので、中国では初期の段階で強烈な封鎖と強制的な監視システムの導入を行っています。ただ、ここで考慮しなければならないポイントは独裁国家の強権力とスピードがなければ陽性者の押さえ込みは“現実的”でないことです。

 

 例えば、問題とされている変異株でも、ウィルスは元来より生物として多くの媒体(動物)に寄生(感染)することを目的に進化を続けるもので、今回の感染症も遅かれ早かれ時間経過とともに感染力の強い変異株が発生するリスクを孕んでいましたし、今後も同様の事例は起こりうるものです。また、どれほどニューノーマルと謳って長期的な閉鎖活動を迫っても、人間らしく生きたい本能と数万年続けてきた人類の慣習に全ての人が抗うことは不可能に近く、前述のような理想的押さえ込み対策を行なったとしても成立しないことを前提とする必要があります。これは行政組織での宴会がいい例で、本来なら彼らを責めるのではなく、銀座の梯子や宴会の事例があった段階で“完全な封じ込めは非常に困難である”ことを認識する必要がありました。

 

 そして感染症の致死率や被害層の範囲を踏まえた上で、感染症による被害と封鎖処置を行なった場合の被害を比較した場合、(今すぐではなく将来的な)副作用が高くなるのはどちらかという視点も当然ながら必要となってくるでしょう。

 

 つまり、ウィルスとしての習性、人間生活のコントロールの難しさ、人間として生きる習性と欲求、被害と対策の副作用を鑑みると、人流の押さえ込みに依存する対策は“現実的”ではありません。なにより、人の命を守ることの本質が人間らしい生活を守ることであれば、閉鎖的な生活を強いる制御を目的とすることは本末転倒のように思います。



■緊急事態宣言の本質は “聖域なき国家介入”

 では、人流の完全な押さえ込みが不可能に近いとすると、結局のところは医療リソースの拡充を目指す議論となります。詳細は他でも論じられているので割愛しますが、本質的問題は国民には準戦時下である緊急事態宣言として私権制限を行っていることに対し、医療制度にはお願いベースの要請しかできないことにあります。

 

 以前から繰り返し指摘しているように、日本の有事体制は“平時の枠組み”を前提とし行なっているため、国家と地方の統治体制も情報発信の整合性も国民への介入も後手に回ってしまう傾向にあります。平時であれば、この日本的な曖昧さも外交や内政で強みともなりますが、権力集中と柔軟な規制改革、迅速な決定が必要な有事では機能しなくなります。そして、緊急事態宣言が有事(準戦時下)である以上、医師会を含めて要請を求めるのであれば、国家介入や私権制限が発生するコストやリスクを背負う前提がなければなりません。もちろん、医療制度への国家介入も例外ではないでしょう。

 

 特に地方と国の連携では有事機能のなさを露呈しています。医師や看護師の確保などに必要な財源の権限は国にありますが、病床の確保は自治体が担いますし、ワクチン接種の指示を国が出して会場や医療スタッフの確保は自治体が担うといった分業制となっています(4/24初めて国が運営する会場を設けることを決定したそうです)。こちらも平時であれば地方の規模や状況に応じて融通が効きくので機能するでしょうが、有事対応ともなれば広域な連携が求められるため、国を中心に権限を明確化して情報を一点に集める必要があります。具体的な指示がなかったためにワクチンを廃棄してしまった件でも問題が顕在化しています。

 

 また、有事対策は感染症に限らず安全保障と直結する分野なので、自治体へ権限を委ねるよりは国が直轄する統治体制であることが合理的です。これは海外のロックダウンとの比較でも同じことがいえます。日本では海外と比較して今よりも強いロックダウンを求める声がありますが、根本的な被害規模の差だけではなく、ワクチン接種における素人人材の導入や、治験の最小限化、異業種による簡易人工呼吸器の製造、イベント会場を用いた収容施設など国家が有事として“聖域なく”介入していますし、民間にもロックダウンに変わって給付金の金額、給付速度の速さ、中間業者を通さない海外版GoTo企画など、支援の質も大きく異なっています。

 

 この1年間、頻繁に緊急事態宣言という言葉を耳にしたと思います。医師会や野党、世論からも要請する声はありました。その主張の正しさや有効性の有無はここでは問いませんが、緊急事態宣言は“聖域なく国家に権限を集中させる準戦時下の宣言”である旨を承知し、その重みを噛み締めた上で “要請” をしなければなりません。

 

 感染症対策の目的も、緊急事態宣言の重みも、共有されずに各々が主義主張をぶつけても“本質的なボタンの掛け違い”をしている状態となってしまい、有意義な議論も有効な対策にも結びつかないでしょう。

 



 本日はここまでです。今回は、感染症対策の本質と緊急事態宣言の本質について再確認をしました。この前提が間違っていると本質の議論はできません。もちろん、議員の方でも医療関係者の方でも各所は全力で取り組んでくださっていると思います。ただ、制度の欠陥は差別や偏見、陰謀論とは分けて感情的にならないことを大切にしつつ明確にメッセージを届けることでしょう。不要不急は一部事業者にとっては排他的であること、そして社会生活を営む上で不要不急とは何を指すのか、それをいつまで続けることができるのか、本質に立ち返って、情緒性を捨てて議論や行動選択を行う必要があります。

 

 アンコントローラブルに陥りつつある感染症対策で、一度立ち止まってエビデンスやファクト以前の “本質” を共有することが今一番重要なテーマではないでしょうか。

 

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-参考・出典-
ワクチン接種、国が会場運営 自衛隊活用で1日1万人規模/日本経済新聞
・予防接種法とは コロナワクチン「臨時接種の特例」/日本経済新聞
・チャートで見るコロナワクチン世界の接種状況は/日本経済新聞

“日米首脳会談のメッセージと覚悟”

黒川 和嗣(くろかわ かづし)です。先日、今般の世論やメディアでは合理的判断や論理的思考よりも、感情に訴えることが優先されてしまう “エモーショナライゼーション” の風潮について問題を指摘しました。この風潮は、原発処理水の海洋放出では顕著にみられますし、相変わらず感染症対策でも見受けられます。

 

 感染者数が増え続ける問題も、人獣共通感染症のコロナウィルスであると判明した初期の段階で想定されていたはずで、本質的な課題解決に向かう指標ではありません。現段階の本質的な課題はワクチン摂取のスピードを上げることにあります。本来であれば国が準戦時下として地方行政や民間の権限に介入し、医療の広域連合を策定するところですが、そこまで出来ないのであればせめてもボランティアのワクチン接種を認可する動きはあっても良いのではないかと思います。海外では実証済みですし、既に緊急事態宣言という準戦時下を発令し不要不急という私権制限を行っているのですから、ボランティアの導入だけが突拍子もない案とはならないはずです。“命を守るため”や“医療現場の負担を軽減すること”が私権制限の理由だとすると、ボランティアの導入について議論が進まないことに矛盾を抱えています。

 

 医療関係の団体による慎重論が原因かはわかりませんが、本質的に必要とされる医療現場の改革はされることなく、国民の私権制限と医療従事者の負担が感情的な“恐怖”によって高められ続けていく世界線はエモーショナライゼーションの象徴ともいえるでしょう。

 

 このようなエモーショナライゼーションに辟易としていますが、本日は時事テーマとして日米首脳会談についてまとめ、原発の処理水問題に少し触れたいと思います。

 

■日米首脳会談のメッセージと覚悟

 会談の詳細は割愛しますが、トピックスはやはり台湾でしょう。台湾の明記は歴史的な意味合いだけではなく、国家として認めていませんが台湾 “海峡” という地域の自由と秩序を守る建前の元、実質的には安全保障として台湾の独立への道筋を作った状態にあります。国際社会では一つの中国として扱われていますし、中国にとっては第一列島線として台湾は国家戦略上、手放せない位置付けでもあります。また、“ニヒル的諦めの中で”でも指摘したように、国家戦略の側面意外でも習近平国家首席の権力争いという側面においても“加速させている権力集中に相応しい成果”として台湾や第一列島線が重要なのです。

 

 今回の日米首脳会談に先立ち中国は16日にフランス、ドイツと環境問題で会談を開き、協調姿勢を示しました。強硬な対中姿勢を見せる米国に対して、中国主導の協調姿勢を示しつつ経済依存度の高い西側諸国を用いて牽制をする思惑がみえます。

 

 他方で、米国は国務長官と国防長官によるアジア外交に加え、台湾に民主共和両党の重鎮が訪問しました。これにより、対中政策がバイデン政権単独の政策ではなく国家を上げて取り組むという非常に強いメッセージを与えています。この包囲網の中で行われた17日の日米首脳会談はまさに“象徴としての仕上げ”で、その重みが1969年来の明記という形であらわれています。

 

 特に今回は今まで軍事的立場を曖昧にしてきた日本にとって相応の覚悟があったと思います。長年、日本特有の曖昧な外交、つまり東アジア地域にコミットメントを示すと主張しながら、実際の泥臭い軍事圧力に対しては引け腰である外交が西洋諸国からの不信感でもありました。泥臭い軍事問題は世論が割れる上に、中国との経済依存度が高い日本では仕方がない側面もありました。しかし、日本のプレゼンスが高まる中、日本は自らの足で安全保障問題に向き合い自国の防衛は当然ながら経済大国として、東アジア地域の秩序形成へ責任と貢献をはたす岐路にたったということです。これが踏み絵のように“被害者”として語られる論説も見かけますが、日本が自国のために担っておくべき問題について日米で再確認をしたに過ぎません。このあたりは実務に強く、必要であれば決断できる菅首相で適任だったように思います。

 

 ただ、経済依存度の高い日本は無闇に交戦的になる必要もなく、あくまでも国際法上にのっとった国家主権である安全保障の文脈に収めつつ、泥臭い軍事再編(法整備や軍備増強)を行うことに変わりはないでしょう。将来的に発展途上国が台頭することを踏まえると長期的には対中依存からの脱却もあり得ますが、国内成長が不安定な状態である以上、“国家主権の安全保障”がこれからのラインとなる筈です。

■10年のコストを費やした “存在しない問題”

 こちらも表層的にはエモーショナライゼーションを用いて喧伝(けんでん)されていますが、文脈としては政治的意図であることは明確です。

 

 処理水に含まれる問題のトリチウムは自然界にも存在し、韓国、中国をはじめ原発保有国では海洋放出による処理がなされています(中国のトリチウム濃度は非公開で放出されています)。また日本の処理水は、科学的に自然界や生物に影響のない基準とされる国際基準に従っているもので特別な問題を抱えているわけでもありません。もちろん、"生体影響が何一つとしてない"とはいえませんが、ポイントは無視できる範囲であるかです。にも関わらず、環境破壊だ、人権問題だ、と騒ぐことは政治的な圧力に他なりません。中韓の批判も、文政権の支持率が就任後最低となったことで求心力を高めるために反日方針をとっているに過ぎませんし、中国は前述でも書きましたが米中対立の延長線でしかないでしょう。

 

 つまり海洋放出問題は感情論と政治によって作られた“存在しない問題”でしたが、エモーショナライゼーションされた世論やメディアによって10年間のコストを払うこととなりました。この問題は政治的ロビー活動家には毅然とした振る舞いをすると共に、一部の感情論を鵜呑みにしてしまう層に向けて、発信者(個人・メディア)が脊髄反射的に批評せず、最低限のファクトチェックを行い、私見なのかエビデンスに基づくのか、メディアであれば中立な報道かエンタメなのかを明確にすることが必要です。

 

 今、必要な議論があるとすれば海洋放出の風評被害についてではなく、ゼロリスク信仰と恐怖扇動、ロビー活動が存在することへの自覚についてでしょう。

 

 

 本日はここまでです。日本の感染症問題はアンコントローラブルな状態になりつつあるように思います。政府も各都道府県知事もお互いに権限が曖昧でなので実行可能な政策が多くありませんし、選挙の兼ね合いもあり安全側に振ってしまいます。世論も、正規雇用と非正規雇用で自粛への温度差がありますし、日本医師会の中にも政治力学が全くないかといえば恐らくあるでしょう。このばらつきは、ワクチンの廃棄問題などでも顕在化しています。今の地方行政では政府からの明確なレギュレーションがなければ対応できない状態にあるのです。

 

 中国がギリギリの軍事行動を行い“偶発的な衝突”を誘っている節も考えられる情勢下で、今般の有事対応には不安があります。解決には有事における地方と中央の権限を明確に定め、国民生活においてはIT技術による情報の可視化が必須となってくるでしょう。その点では菅氏の実務家としての “ドライさ(忖度の少ない合理的判断)”は今の日本に必要でしょうし、インクルーシブ(包括的)なデジタル改革を掲げるデジタル庁は、非常に大きな鍵を握っています。ここでも、データの吸い上げに対してエモーショナルな反論が多いですが、デメリット以上に享受する利益の方が圧倒的に高いでしょう。

 

 私たちは、反応的に行なわれている表層の議論に引っ張られずに、多角的事象観測を用いて本質の議論を心がける必要があります。

 

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-出典・参考-

原発処理水、放出決定に10年 国際基準の7分の1で海に/日本経済新聞
原発処理水放出で韓国、中国にどう対応すべきか/JBpress
海外でもトリチウム放出、韓国原発は年間136兆 仏再処理施設は1.3京/SankeiBiz
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』三重水素

“自走力が変化の世界線で唯一の価値となる「ニヒル的諦めの中で」3/3”

 黒川 和嗣(くろかわ かづし)です。前回から事実や分析、理論よりもエモーショナル(≒感情)を重視する社会ではドラスティックな改革が難しく、ニヒル的諦めに似た世界線の中で “せめて将来に繋ぐべきバトン” を国内外の課題を通して考察してきました。それは、社会活動に於いて絶対的な正解やベストな選択は存在せず “Trade-offによるベター” を選ぶこと、つまり許容の問題だということです。私はくどい程、感染症対策は医療を軸にした有事体制の構築と、個人による予防医療意識、そしてデジタル行政による情報集積機能が鍵を握る旨を指摘してきました。他方で、国民生活に於いては高リスク者層と高リスク業界を除いて持続可能な範囲での対策に留めなければ持続性を失い“広範囲に及ぶ損失”に繋がる可能性があるとも考えています。

 

 今般の“会食問題”も会食を禁止する風潮が長期化を前提とした場合、持続性がなく無理筋でしょう。レストランの感染リスクが高いことは論文でも示されているので、GoToのように“奨励”をする必要はないと思いますが、会食者を見つけては糾弾する“隣組”のような錦の三旗は与るべきではないと思います。元々、会食をしない方や外出を好まない方、QOL(Quality Of Life)に影響がない、仕事と会食の関連性がない方にとっては問題ではありませんが、それ以外の方々にとっては精神的にも経済的にも “持続性のない根性論” であり、隣組の行為は排他的な村八分にしかならないものです。 

 

 さらに、会食問題の批判で見受けられる“オンラインで十分”との意見は、五感的コミュニケーションと事務的コミュニケーションを混同しているように思います。私自身、Skypeによる打ち合わせや私的な対話などを10年前から行っていますし、業務上のコミュニケーションはテキストベースの非同期通信を用いています。これは事務的なコミュニケーションではコンテクスト(文脈)ではなく情報に価値があるためと、私的な対話は物理的距離や時間コストを超える必要性がある“緊急的補助輪”として有用性が高かったためです。しかし、コミュニケーションの中には、空間共有による五感を通した心理的距離、リアルタイムなインタラクティブ性など、五感(コンテクスト)を用いたコミュニケーションが必要とされることもあります(ここが、VRやAR、デジタルコンテンツの障壁となっている最大の要素です)。

 

 安易に“オンラインで十分” や “会食警察” を容認する姿勢を蔓延させることはスキャンダルを求める層にとってプラスであっても、長期的感染症対策や個人のQOL、社会活動にとってマイナスとなる作用も考慮しておかなければなりません。

 

 さて、前回と前々回では国内外の課題を俯瞰して考察しましたが、今回は国内のより身近なテーマ、労働市場の現状とそれに伴うライフスタイルのパーソナライズ、個人の自走力について考察したいと思います。

 

「ニヒル的諦めの中で」3/3

第1項 "エモーショナライゼーションされる日本"

第2項 "国際社会から眺めるニヒル的諦めの中で"

第3項 "自走力が変化の世界線で唯一の価値となる" 

 

■デッドロックへ向かう働き方改革

 諦めの中でも何かしらの成果を残すことをテーマにしてきましたが、今般の労働市場ではネガティブな“現状維持”を残そうとしています。例えば働き方改革でも、会社に縛られずに自由な働き方ができるとされていますが実際は、定年は引き上げられ、所定労働時間は減少し、テクノロジー投資と人件費のコスト競争に晒される “生涯現役を前提とした自己責任論”の改革となっています。余剰人材の人材シェアや日雇い労働に近い名ばかりの個人事業などは、解雇規制を維持した状態で人件費を削減するための抜け道であり、シェア産業やフレックス制と、ニュースタイルのように謳われていますが、都合のいい人材派遣でしかありません。

 

 もちろん、私も個人的に派遣業とは繋がりがありますので派遣が悪いわけではありませんし、価値観もリバタリアンに近いので、人材の流動性や自由経済には大いに賛成です。ただ、本来であれば解雇規制、終身雇用、年功序列、新卒一括採用など企業の生産性を損ねる要素を排除し健全な進化圧を促しつつ、社会保障の裾野を広げて包括的にライフスタイルの選択を増やす機会を設けることがニュースタイルであり、現行の低賃金、長時間労働、個人の意思が反映されない派遣労働が“輝かしい働き方改革”ではないということです。

 

 今のままでは、企業が社会保障を担っているようなものなので、企業の生産性は向上せずに派遣人材の低賃金化は進むでしょう。さらに、低成長になる企業を日銀や行政の補助金で支えて延命しているのですから、冒頭で触れたような輝かしい働き方改革とは非なるものです。特に、DXが浸透すると優秀な人材が複数社を掛け持つ寡占状態に向かうことは目に見えているので、仮にどこかで市場原理の淘汰が始まれば、現行の派遣業でも正社員でも双方で深い傷を負う層が発生する筈です。

 

 恐らく平成の30年間がそうだったように、片方には曖昧な現状維持を持ちながら、もう片方で場繋ぎ的な変化を試みるのでしょう。しかし、加速度的に進化するグローバルなテクノロジー社会で平成的延命処置が通用するほど甘くはないものです。少ないリソースで最大限の生産性を目指すことが今、日本に求められる成長戦略だとすれば、本ブログでも取り上げてきたベーシックインカムなどが重要になるのですが、ドラスティックな改革が難しい日本では、実現性の低いところにあります。

 

 このようなデッドロックへ向かう“諦めの中で”生きていくには、せめても個人の価値観を変更し、社会変化に頼らないライフスタイルを構築することが必要です。

 

■価値観のパーソナライズ

 そこで先ずは自身の価値観を、“皆んながしていることをする”という同質的大衆化を捨て、自分自身にとって得意なことやライフスタイルにあった生活環境などを基準とする個人化、つまり“価値観のパーソナライズ化”を進めることが重要となります。周囲と同じことは当座的選択として正解のように映りますが、それは前述の延命処置でしかなく、市場原理の力学が作用すると淘汰の対象となり、また新たな自分のポジションがリセットされるリスクを秘めています。個人という軸を持ってライフスタイルを柔軟に変化させることは、少ないリソースで利益の最大化を目指す理想的な生き方ともいえるのではないでしょうか。

 

 例えば、居住場所を都市部から地方に移すだけでもコスト面を抑えつつ、都市部より人口比に対する人材価値を上げることができます(もちろん人材の希少価値が上がる反面、市場も縮小するので業種的選択肢は減少しますが)。また、延命処置的な職業選択であったとしても自身が得意とする軸があれば、生活コストを下げるだけで年齢やキャリアなどの同質的価値基準から脱却することもできます。

 

 “田舎で自由な生活”といえば60年代のヒッピーを彷彿とさせますが、何も資本主義や近代文明を捨てることを推奨しているわけではありません。日本の地方にはグローバルでも通用するまだ認知度の低い伝統工芸や農産物、文化的遺産が数多く存在し、再定義するだけでも市場経済の中で大きな存在感を発揮できるでしょう。ワインで有名なフランスのブルゴーニュが地方だからといって非資本経済地域かといえばそうでないことと同じです。

 

 本当の働き方改革も包括的な社会保障改革も進まない“ニヒル的諦めの中で”、その場凌ぎの同質的大衆化から離れ、年齢や性別、キャリアに囚われない“パーソナライズ化”が、せめてもの成果となります。

 

 ただ、人間は社会性を伴う動物ですので相対評価を得るために評価され易い同質化を安易に求めてしまう習性もあります。文明社会を生きる上で捨てることのできない社会性や相対性を維持した状態で、安易な同質化に陥らないためには価値観のパーソナライズ化だけではなく能動的に生きる “自走力” も必要です。

 

■自走力を軸とする生き方

 “自走力”とは、つまり自分の働き方や生活スタイル、様々な取捨選択を主体的に管理し、仕事や情報を他者から与られる受動的人材ではなく、生み出す側の能動的人材として生きる力です。平たく表現すると“自分で考え行動する力”を指し、変化の激しい時代を生きる上では世代や業種を越えて多くの人に求められる能力です。

 

 一昔前までは一部人材(フリーランス、自営業者、経営者など)に限られ、一般的に求められるものではなかったでしょう。軍事や工業社会においては受動人材が重宝される社会システムだったので、教育からライフスタイルまでもが自走より同質化を重視してきました。特に日本は異質を嫌う生存本能に留まらず、人種や言語、文化にも大きな差異がなかったため、近代化以前から能動性より受動性を重視した同質化が根強い社会だったと考えられます。しかし、冒頭で触れたように今後、人材流動性が高まれば能動的な自走人材にならなければなりません。

 

 少々、小難しい話になってしまいましたが、この自走力を養うこと自体は、意識さえすればそれほど難しくないことだ考えています。“自分で考え行動する力”を身につけるには“情報を可能な限り正確に取捨選択して生活に活かす”だけだからです。

 

 知識や情報を身につける重要性は多くのビジネス書や自己啓発本で散々取り上げられ、巷では受動的な情報コンテンツに溢れています。ただ、ClubhouseもYouTubeも情報をインプットするだけでは時間を消費しているに過ぎず、同等のアウトプットが伴わなければ能動性、自走力を獲得することには繋がらないものです。仕入れた情報に対してフィルターバブルがないか、ポジショントークはないか、エビデンスの正確さ、受益構造など、多角的に事象観測を行い、自分の言葉で責任を持って考えをまとめること。

 

 もちろん、全ての人が専門家である必要もないので、厳密な研究調査などは不要でしょう。しかし、悪意ある誘導や知識の欠如によるエモーショナライゼーションされた考えに傾倒しないためにも、情報の取捨選択がリテラシーへと繋がり、そしてそのリテラシーが“自走力”を養う源となる筈です。



 この1年間、私たちは多くのものを失い、あるいは得たりと急激な変化に晒され続けるも、世論や政策は必ずしも合理的な成長戦略を重んじるわけではないことが、よく見えてきたと思います。それに多くの方々が求めている、資格やキャリアもフォロワー数も、次に来る変化に抗えるような普遍性はありません。このような時代を生きなければならない私たちは、“ニヒル的諦め”に打ち負かされず、自身の力で“自走人材”として生きる力を身につける他ないのかもしれません。

 

 価値観のパーソナル化に基づいた “自走力” が、変化の世界線で唯一対応できる力ではないでしょうか。

 

 本日はここまでです。次回はテーマを変えて考察を行いたいと思います。

 

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 -出典・参考-

Covid Superspreader Risk Is Linked to Restaurants, Gyms, Hotels - Bloomberg

 

“国際社会から眺める「ニヒル的諦めの中で」2/3”

 黒川 和嗣(くろかわ かづし)です。前回、感染症で現行の対策が抜本的解決策に繋がらない旨を指摘しましたが、緊急事態宣言を解除後に当然ながら“リバウンド問題”が浮上することとなりました。広域連合を用いた医療体制の改善やICT技術による情報管理統一を行わない限り、国民努力だけではこれが限界なように思います。“気の緩み”との表現は合理的対策ではなく根性論ですので安易に用いるべきではないでしょう。“命が大切” “医療現場の悲痛さ” “国民の努力” “気の緩み” とエモーショナルな表現は万人に伝わり易く、それは戦時中もよく用いられた民衆扇動方法ですが、そこに浸るだけでも諦めるだけでも人類の進化は止まってしまいます。エモーショナライゼーションされる世界線でニヒル的諦めを越え、何を残すのかを問わなければなりません。

 

 これは今後、デジタル化や新制度、規制改革を行う上で常に向き合わなければならない課題でもあります。例えば昨今のデジタル化に伴うプライバシー保護問題でもエモーショナライゼーションは存在します。

 

 厳格に管理されている暗号通貨産業でも“高リスク”とされるように、インターネット上に繋ぐ限り完全にクローズドな環境はあり得ないものです。また、多くの技術者が指摘しているように安全保障や国家機密に関わる内容はP2Pのような機密性の高いシステムを用いることが概ねの技術的見解です。仮に、国会議員の方々がLINE上で機密情報を取り扱ったとすれば、それはLINE側の問題ではなく国会議員のリテラシー問題といえます。サーバーの問題も国内に設置するにはコストが高すぎる点やグローバルにリスク分散させるメリットなど複合的要素を考慮する必要があります。

 

 韓国、中国の企業だからと一概に排除や糾弾することは、本質的なリテラシー問題への議論を覆い隠すエモーショナライゼーションでしかないものです。

 

 このエモーショナライゼーションとニヒル的諦めを軸に、本日は国際社会について考察を行います。

 

「ニヒル的諦めの中で」2/3

第1項 "エモーショナライゼーションされる日本"

第2項 "国際社会から眺めるニヒル的諦めの中で"

第3項 "自走力が変化の世界線で唯一の価値となる" 

 

■感染症に残された課題

 ワクチンの供給体制やワクチンパスポートなど、制度的なテーマが注目を集めていますが、世論ではアジア人への暴力行為が大きな問題として上がっています。米国をはじめ西側諸国が対中政策で強硬姿勢を示している理由は、世論のこのような感情を汲み取っている側面もあるでしょう。

 

 ただ、前述のワクチン供給体制や医療リソースには限界があり、結局のところ感染症問題と抜本的に向き合うには、中国へのエモーショナルな対立や賠償を求める姿勢より、再発防止策を構築するための協力が重要な課題として残されています。今回のSARS-CoV-2(新型コロナウイルス)が初めての事象ではなく、2003年のSARSと類似していることを踏まえても、未然の対策構築が必須であることは明確です。

 

 もちろん、3/30に発表されたWHOの調査報告でも伺えるように、必ずしも中国が全面的な協力をするとも国際ルールに批准するとも限りません。しかし、米スクリプス研究所のクリスティアン・アンデルセン准教授(免疫学・ミクロ生物学)率いる研究論文でも天然由来(コウモリやセンザンコウなどの野生動物)の感染が示唆されており、ズノーシス(人獣共通感染症)リスクが高い野生動物との接触や接触後の検査、闇市場の根絶、危機管理体制などを整えることが求められます。

 

 中国にとって、中国起源である可能性、そして初動で中国が情報を隠蔽した疑惑追及を避けたい思惑ですので、中国の責任という視点は問わない条件下で再発防止策だけを設け、WHOによる定期的審査を行う妥協策を提案することしか、ニヒル的諦めの中で残せるものがないように思います。

 

■西側諸国の対中外交

 米国を中心とした西側諸国で対中圧力が活発化しています。しかし、前提として中国共産党が民主化することはあり得ないと再認識する必要があります。昨今の香港問題などをみていると、まるで民主化が可能であるかのような言論を見かけますが、香港は“期限付き”の自由経済であったに過ぎず、経済成長や安全保障などは元より中国共産党の傘下にあります。そして中国共産党が民主化するというのは中華人民共和国が失われることを意味するので現実的ではありません。

 

 また世界情勢の観点からも、植民地時代から冷戦時代にかけて西側諸国に属する地域は減少し、現在では西側諸国が必ずしも多数派というわけではないことも事実としてあります。このような世界情勢で西側諸国が提唱する国際秩序は“中国共産党にとって受け入れ難いもの”でしかないのです。この相容れない対立を解消するには、軸を“対共産党”から“習近平政権による共産党に置き換える”という政策が“The Long Telegram”という匿名論文で示されています。この論点は“習氏さえ打倒すれば解決する”との見方をするのではなく、“習近平政権の弁慶は習氏の権力維持にある”と考えれば現実味が帯びてきます。

 

 2018年に国家主席の任期撤廃を行い2023年に2期目が終わる習氏にとって、3期目に入るまでの権力強化は最優先課題でもあります。香港や台湾、尖閣諸島、デジタル人民元などは正に象徴的成果として是が非でも欲しいところでしょう。そのような思惑を鑑みれば、習近平氏の地位こそが中国共産党の弁慶とも言えるのではないでしょうか。

 

 ただ問題は、安全保障面です。国家体制の変更は望めない中で習近平政権に圧力をかけたとしても前述の思惑がある以上、安全保障上の解決には繋がりません。とはいえ、安全保障に関しては“ニヒル的諦め”とういうわけにも行きませんので、“第一列島線に駐在する戦力を増強する”という日本の世論が嫌う軍事的泥臭さを用いるしかないでしょう。特に安全保障の側面では国連による拘束力は実質的に失ってしまっている現実もあります。米国の外交で日本のプレゼンスが高まっているのも泥臭い軍事力の必要性が背景にあり、米国に守ってもらえるかのような受動的安全保障からの脱却が求められています。

 

 つまり、中国の国家体制改革は非現実的であり香港・台湾(尖閣含む)問題が習氏の悲願だとすれば、安全保障面では泥臭い戦力増強を行い、外交面では習近平政権を軸とした圧力を行い、レッドラインを明確化させることが“ニヒル的諦めの中で”見出せるTrade-offな政策方針かと思います。

 

■ミャンマー問題の分水嶺

 前述の中国とある種似た構造にあるのがミャンマー問題です。ミャンマー問題でも民主化か独裁化かとの議論を目にしますが、アンサンスーチー氏の統治下でも実際は軍主導の統治体制であることは一貫していました。元々、第二次世界大戦時の日英対立によって、植民地支配からビルマ国(現ミャンマー)の独立、そしてクーデターによるミャンマー建国と、軍による影響力が大きいことに由来します。また、移民や移民に伴う宗教対立などの火種を抱える側面や、抜本的な問題として民主主義を成熟させるには安定した豊かさが必要になる点などもあるでしょう。

 

 このような歴史を考慮するとオバマ政権時代に行ったように、軍部に主導権を認めつつ徐々に民主化へ移行させる他ありません。しかし、この過程で国際社会がロヒンギャを問題視してしまったことが今回のクーデターに繋がった分水嶺の一つだと思われます。

 

 もちろん、ロヒンギャの方々に対する人権問題は厳密に対処や精査が必要です。ただ、中国の感染症問題同様に、ロヒンギャ問題の追及は=ミャンマー軍の責任追及となってしまうので、感情だけで世論の圧力をかけるべきではないところです。特に、ロヒンギャ問題はミャンマー国内と国際社会との捉え方が大きく異なり、内政問題としての慎重さも必要になります。

 

 また、クーデターやロヒンギャ問題に中国が介入しているとの論点には疑念を持っています。もちろん、全くの関与がないとはいえませんが、前提としてミャンマー軍は中国との過度な依存関係も米国主導の統治も望んでおらず他のASEAN諸国同様、独立した発展を望んでいます。中国以外の周辺国にとっても、地政学的に中東からのエネルギーパイプラインを確保する上で重要な国家なので安定は必須なのです。

 

 そこで重要な役割を担えるのが日本です。日本とミャンマーは歴史的関係性も深く、何より日本企業による投資状況を鑑みれば日本の存在感を無視することもできません。経済を台無しにしてしまっていることに対する強いメッセージ(圧力)を、日本が明確に発信し、国際社会からは過去のロヒンギャ問題を免責することと軍部の権力維持を前提に解決への糸口とするしかないでしょう。

 

 当然ながら、人権、人命は最優先ですし、軍国や独裁よりも民衆に権限が委任される国家運営であることが望ましいと思います。しかし、エモーショナルな希望的観測ではなく、リアリズムを伴う“苦味”を飲み込む選択こそが、更なる暴力(軍事介入若しくは武装勢力との大規模衝突)を避けるためにも通らなければならない分水嶺となるように思います。現行では追い詰める西側諸国とASEANへの影響力駆使して取り込む中国と、代理競争状態にあり、ミャンマー国民が望む民主主義も日本の種まきも、全てが“一寸先は闇の中”です。



 本日はここまでです。国家を一丸とするためにはエモーショナルな表現が有効でしょう。それは有事の際や今回の感染症対策などです。しかし、エモーショナルに引っ張られて上澄だけを汲み取っては奥底に沈む本質を覗くことはできないこともあります。リテラシーより先にSNSが発展し情報共有手段が拡散された現代社会に於いて、政治はポピュリズムに系統していき、メディアコンテンツは分かり易さが重視され、世論は感情で審判を下すでしょう。私たちは、エモーショナライゼーションされる政治やメディアの中で、ニヒル的諦めを抱えつつ、本質を見つけなければいけない、そのような時代を生きています。

 

 次回は視点を日本に戻し、リアリズムで紐解く感染症後の社会を考察したいと思います。

 

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ー出典・参考ー

・To Counter China’s Rise, the U.S. Should Focus on Xi / POLITICO

・THE LONGER TELEGRAM / Atlantic Council

・2019年度の外国直接投資認可額、前年度比32.9%増 / JETRO

・国際政治論壇レビュー(2021年2月) / API 研究主幹・慶應義塾大学法学部教授 細谷雄一 / Asia Pacific Initiative

・ 新型ウイルスの「研究所流出」説、証拠はあるのか? / BBC NEWS JAPAN

ビルマ国 / フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 

 

 

“エモーショナライゼーションされる日本「ニヒル的諦めの中で」1/3” 

 黒川 和嗣(くろかわ かづし)です。お久しぶりです。この1ヶ月間、変異株やワクチンなど不確定要素が多い状況下で無闇な情報発信を避けて静観していました。その間、ワクチン接種は順次行われつつ緊急事態宣言は延長され、オリンピックの海外来場の中止が発表されました。

 

 恐らく政府の思惑としてはKPI(目標設定)をオリンピックの安全な開催としているので、この処置が “そのために必要” である点は理解が出来ます。また、変異株の脅威も実際のデータを鑑みれば従来のウィルスより高く、警戒が必要だと思われます。とはいえ、結局のところウィルスの撲滅はほぼ不可能である点にも変わりはなく、科学的根拠に基因しないゼロコロナ思想(過剰な自粛)が “支持できる” 状況だとも思えません。

 

 特に“命は大切だ”とするエモーショナルな論拠を用いて、自粛の問題点を議論すらさせない空気感は、厳しいようですが思考停止であると言わざるを得ません。この傾向は先の3.11でも同様です。3.11は痛ましい災害であり10年の歳月を経ても癒されるものではないでしょう。しかし、人々の心に寄り添う主張や思いも大切ですが、そればかりでは前進することが出来ないことも事実です。エモーショナルに浸るのではなく、有事に於ける統治体制の検証を議論しておく必要がありました。3.11と今回の感染症は “有事下の統治体制”  という観点では同質の問題なのです。

 

 今回の感染症もデジタル化や感染症関連の法整備など一定の改革は行われるでしょうが、数年後には3.11と同様にエモーショナルな演出で語られることでしょう。

 

 本日はエモーショナライゼーションに向かいつつある日本の国内状況を俯瞰して考察してみたいと思います。

「ニヒル的諦めの中で」1/3

第1項 "エモーショナライゼーションされる日本"

第2項 "国際社会から眺めるニヒル的諦めの中で"

第3項 "自走力が変化の世界線で唯一の価値となる" 

 

■ニヒル的諦めの中で何を残すのか

 3/21に緊急事態宣言解除の方向性が示されましたが、解除の指標が医療の逼迫度合いであるのであれば医療体制の改革(介入)は必要な筈です。ただ、医療体制をドラスティックに改革するには政治的調整や物理的問題、法的問題など幾多にも及ぶ障害があり、現行の統治体制では不可能(正確には、行うだけのインセンティブが政治家にはない)との判断なのでしょう。この判断を前提とした場合、世論や受益団体とのバランスの中で現実的な方針とは、国内観客を動員するオリンピックをKPIとして、温暖な気候(春先)になるまで規制を緩やかに持続させつつ、ワクチン摂取を最大限に広げることです。

 

 しかしこの道筋は問題を抜本的解決へは導かず、応急処置的な対策でしかありません。温暖な気候でもウィルスの活動がなくなるわけでもなく、ワクチンも重症化の防止や発症リスクを低減するものであって治療薬でもありません。

 

 ただこの1年間、本ブログでも感染症について取り上げてきましたが、政府の政策方針やメディアの報道姿勢、世論を取り巻くエモーショナルな空気感を見ていると、この曖昧な政策が落とし所でもあるように思います。ニヒルに浸るきも有りませんが、感染症対策としての枠組みではこれが “現状の” 限界でしょうか。 

 

 この過程に於ける国民の犠牲は“果断なる決断の結果”として美辞麗句で語られ、命を守るために仕方がないとされつつも、時が経てば格差として負の遺産の道をたどることとなります。

 

 諦めにも似た空虚感がどこか漂う中で、今後を見据えてエモーショナルではなく現実的遺産を残す必要があります。それはワクチン接種の推進と国民IDアプリの展開です。

 

■ワクチン有害のイメージを捨てるチャンス

 これからメディア報道で注視が必要なのは、ワクチンの副反応に対する恐怖扇動です。感染症の恐怖扇動が始まった段階から指摘されていたことで、感染症の過度な自粛を扇動すれば経済的格差が広がり、格差が広がれば給付金を求める政権批判の扇動が強くなり、ワクチンや治療薬が完成すれば副反応への恐怖扇動へ移行するというシナリオです。実際に概ねこの通りのシナリオに沿って報道が展開されています。

 

 今回はこのシナリオの是非は問いませんが、ワクチンの副反応について恐怖扇動に騙されずに精査することは重要な課題です。

 

 アナフィラキシーの発症も約22万人の接種者に対して約36件(3/11現在)という数値になり、相対的にこの数値が高いのか少ないのかでいえば、100万回あたりの割合に換算すると米国での発症頻度と大差はなく今の数字だけ切り取って “日本が多い” との認識は誤りとなります。※1また、アナフィラキシーは場合によっては命の危険に関わる副反応ですが、接種会場のように医師や医薬品が適切に準備さている環境下では過度な心配は必要ないとされています。※2

 

 もちろん、ゼロリスクは存在しませんので引き続き注視は必要ですが68カ国が承認をし、国内で約22万人が接種を受けているワクチンを数件の副反応を元に恐れて拒むことに合理性はありません。特に公共衛生の観点からは、マスク会食や時短営業よりも遥かに重要な貢献となるのではないでしょうか。そもそも、現代のワクチン精製技術は過去のものとは大きく異なり、精製度や治験レベルも高く、個人的持病や体調を除けばリスクよりもワクチンの有効性が優位になるケースは多い筈です。

 

 これを機にワクチンのリスクと有効性を正しく理解してもらい、予防医療としてインフルエンザワクチンをはじめ、HPVワクチンなど、各種接種のハードルを下げることは将来の “遺産” になるでしょう。

■感情と科学の究極的世界線

 続いては前回も触れましたが国民IDのデジタル化についてです。現在使用されている自治体や各省庁のwebシステム及びアプリケーションを統廃合してヘルスケア情報、社会保障情報、資産情報などを一括管理できる “スーパーアプリ”化 を行います。これは脱税防止や行政処理費用の削減、社会保障のレコメンド機能、予防医療へのインセンティブ付け(予防行動に対する還元など)が可能となることから、財政面でも国民の生活面でもプラスに働くことは明らかでしょう。

 

 ただ、ここで問題になるのはセキュリティー面ですが、この点に関しては “これを行えば必ず安全” という魔法の処置は存在しないもので、システム構築の際にどれだけのリスクヘッジを行えるかにかかってきます(アナログでも同じことです)。

 

 そのシステム構築に於けるポイントは大きく分けて、1,ITゼネコンとの決別、2,適正な予算、3,人材の一本釣りでしょう。1と2は同じ問題で、専門家の方々からも再三指摘されているように、大手ITゼネコンは要件定義書や仕様書のみを作成し、実際の業務は孫請けや曽孫請けが行う体制なので、COCOAのように致命的なシステム欠陥を生じさせる可能性があります。

 

 予算面でも、仕様書ありきのプロジェクトは ”何を作成するか” 以前に予算や委託先を決めることとなり、必要以上に予算が多額になりますし、前述のように下請けに流せばその分さらにコストも増えます。また、分離発注でも一括発注でも下請けに分散する発注方法では保守の要であるフィードバックが滞ってしまうリスクも内包しています。正にデジタル化で生じる問題の多くがこの “ITゼネコンとの関係性” に集約されているともいるでしょう。

 

 3の人材に関してですがここはセキュリティーにも大きく関わる点です。次期デジタル庁では先のゼネコン委託を問題視しプロジェクト毎にチームを組むとしていますが、こちらは人材流出のリスクが高く、システムの脆弱性に繋がる可能性があります。この点を補うために全体をマネジメントする人材、ベンダーのシステムを評価できる人材、そしてセキュリティー管理を行う専門部署を設けることが要となります。

 

 巷ではDXがバズワードとなっていますが、ハッカーにとっては脆弱なDXほど嬉々とするものはなく、下手に自前主義でセキュリティー関連に手をつけるのではなく、そこには実績のある専門組織(企業やチーム)に委託する必要があります。無闇に人材を増やさず、一流の人材を高額な報酬を元に “一本釣り” することが、プロジェクトの質やセキュリティーにとって重要な要素となるのです。ここが、デジタル化が進んだ先には優秀な人材だけが働く社会であるとされる所以(ゆえん)でもあるでしょう。

 

 最後に、コンセンサスを得れるのかです。社会のデジタル化とは、感情的な人間心理と合理的な科学の接合点で、感情と科学の究極的世界線ともいえます。合理的アプローチでは、デジタル化で削減できる費用を給付金としてインセンティブ化することと、アナログ処理にかかるコストを税金として上乗せする市場原理的アプローチで、銀行手数料やマイナンバーポイントがこれらに当たる政策です。そして感情的なアプローチですが、既に存在する感染症への恐怖やデジタル管理の必要性を上手く活用することで “ニヒル的諦めの中でせめても、残せる遺産” となるでしょう。 




 本日はここまでです。感染症問題、オリンピックのジェンダー問題、デジタルセキュリティー問題などで昨今は、抜本的問題解決よりもエモーショナライゼーションされた世界線が優先されつつあるように感じています。私が常々、思考の自走化が大切である、と指摘しているのも感情論に危機感を感じているからです。テレワーク格差などともいわれていますが、結局のところ自走能力が問われる時代になっているということだと思います。

 

 感情に逃げず、自身の頭で考えて負の側面にも向き合える人間が価値を生む時代。既にその自走の世界線に入っているのですが、巷ではClubhouseやYouTubeのような受動的コンテンツが流行し自走人材(発信者)と受動人材(視聴者)で大きく二分されつつあります。

 

 このようなエモーショナライゼーションされつつある世界線で、感染症問題についてニヒル的諦めに浸らずに何を残すのかを、議論し始める段階にあるのではないでしょうか。

 

 次回は、Quadを含め国内の俯瞰から国際社会に移りたいと思います。

 

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Grae DickasonによるPixabayからの画像

-出典・参考-

・NHK特設サイト 新型コロナウイルス/ワクチンQ&A アレルギーや副反応は ※1

・NHK NEWS WEB/アナフィラキシーの疑い「重大な懸念認められず」厚労省分析※2

・日本経済新聞 チャートで見る日本の接種状況/コロナワクチン

・日本経済新聞 チャートで見るコロナワクチン/世界の接種状況は

 

"自走する思考を目指して"

 黒川 和嗣(くろかわ かづし)です。本日は社会課題の考察ではなく、 “自走する思考”をテーマにお知らせを少しさせて頂きたいと思います。

 

 “はてなブログ”では政治経済を軸に社会課題について考察をし 、"note"では神道や文化を軸に社会課題を考察していましたが今後は、はてなブログもnoteも同様の内容で投稿させて頂こうと考えています。私としては情報を政治なら政治、文化なら文化と線引きすることで少しでも分かりやすくしているつもりでしたが、そこには分かりやすさの反面、“情報の連続性”が損なわれる側面も存在している点に釈然としないものがありました。

 

 特に今般のSNSやメディアでの情報には懸念が多く、知識不足や誤解ではないプロパガンダ(≒世論誘導)や自己欲求(マウント)、宗教論争のような陰謀論が溢れ、世論が扇動される傾向がみられていると感じています(肌感ではありますが、皆さんも感じていると思います)。

 

 これは、SNSやメディアでの情報が“隙間時間に消費する断片的情報”となったことが一因ではないかと考えています。読み手はタイトルのみを読む場合や “考えずに情報を吸収できる”切り取られた内容(短文)を音声や映像コンテンツで呑み込み、発信者はポピュリズム的内容に切り取って断片を提供することとなります。使いようによっては時短となりとても便利な発展でありますが、間違ってしまうと前述のような本質を消失した論争に繋がってしまいます。

 

 つまり、分かりやすく情報を個別化したり薄めたりすることは、情報処理の手数を増やせても深さには繋がり難いリスクも内包しているということです。 情報を大量にインプットするだけではなく、一つ一つの情報に対して深く“自分の頭で考えること”が大切で、そうする為にも発信者が安易に情報の連続性を断ってしまっては本末転倒です。もちろん、再生回数などを消費されるだけで良いのでしたら問題ないでしょうが、少なくとも私は皆さんと一緒に思考を高めたいと思っているので私の求めるものではありません。

 

 市場経済や組織運営のみならず、情報収集ですら自走(自分の頭で考える)することが大前提である中、それは私のコンテンツが “文字の壁” である点にも繋がっています。イラストや行間を増やし、キャッチーな単語を用いれば分かりやすさは増しますが、自分の頭で考えながらでなければ読めない、というハードルを設けることも一つ重要かと思っています。もちろん、正しい情報を分かりやすく伝えることは情報伝達に置いて最も重要であることも承知しています。ただ、全てが簡易化されるのではなく文字の壁のコンテンツと短編動画でのコンテンツの両輪がなければ、片手間で何も思考せず、誤解を誤解とも思わずにハッシュタグで誰かを傷つける方々が増えてしまうように思います。



 今回は最近の引っ掛かりを吐露してしまったので、長々と冗長的に書いてしまいました。冒頭で触れたように、今後は、文化、政治、経済、技術、社会、ビジネス、と情報の連続性を重視して執筆していきたいと考えています。こちらの都合でコメントはオフにしていますが、私のようなブログを読んで下さる読者の皆様にも、私の拙い考察にツッコミを入れながら一緒に社会課題について自走して頂ければとても嬉しく思います。

 

 では、noteはてなブログともに引き続きよろしくお願いします。

 

 “思考の自走を目指して”

 

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“緊急事態宣言を未来に繋ぐ議論”

 黒川 和嗣(くろかわ かづし)です。日本では緊急事態宣言が発令され、宣言の実効性やワクチンの時期、オリンピック開催の是非などの議論が多方面で行われています。ただ、緊急事態宣言の課題は去年の記事(米国の暴動と緊急事態宣言が導く「変容する民主主義。」)で指摘しましたし、ワクチンやオリンピック問題もメディアや識者、政府が発表する以上の情報は特にないと考えています。何より有事とされる緊急事態宣言下で、宗教論争化したネット上の対立や銀座でのゴシップ話に辟易としていることが実情で、それらの時事ネタにあまり触れることはありません。

 

 それよりも本項では米国の分断問題についてもう少し掘り下げつつ、日本の緊急事態宣言を活かすための未来思考について、皆さんと考察を深めたいと考えています。

 

 今のネット上には玉石の“石”の言説ばかりが氾濫していますが、今回の緊急事態宣言によって今後も格差が広がり、SNS上では合理性や社会性の伴わない鬱憤がさらに拡散され、心の拠り所として陰謀論がささやかれ、経済的に困窮した人たちは情報商材に集まるのでしょうか。本来であればリベラルを標榜する野党が世論や労働者側の視点を政策に昇華してバランスを保つところですが、緊急事態宣言を要請しておきながら、持続性の低い補償を求め、更には科学的根拠もない“ゼロコロナ発言”まで行うのですから本質的な議論を牽引することは難しそうな状況にあります。

 

 本日は辟易とする論争とは距離を置いて、世界情勢を軸に緊急事態宣言の先にある本質を分解したいと思います。

 

■米国の分断が歩む道

 今更ではありますが、米国問題は日本の格差問題とも通奏低音では繋がっているテーマで、米国だけの問題や感情的な対中論ではない旨を理解しなければなりません。この視点を持っていると陰謀論争に執着せず、個人や社会全体の成長戦略に向けて糧とすることができる筈です。

 

 再三指摘してきた通り、バイデン氏とトランプ氏のどちらが対中政策に於いて日本の利益を守ってくれるのかといった議論や、短絡的な民主主義の崩壊説を煽ることに意味はありません。今、必要な議論は日米ともに格差や分断を社会保障の裾野を広げることで対応し、中国とは協調路線しかない現実を受け入れ、中国に国際社会の秩序を批准させるための戦略についてです。

 

 この点でバイデン政権は大規模な経済対策によって、応急処置程度の効果ではありますが加熱しすぎた分断の溜飲を下げる努力があるでしょう。ただ、リベラルな人権、環境、多様性を推進するバイデン政権が中長期的な分断解消を行うことは難しいことに変わりありません。しかし、これは民主党もバイデン氏もカマラハリス氏を副大統領にしていることを鑑みれば、次期大統領選挙での分断は織り込み済と考えている筈です。

 

 そもそも、分断の要因である一つは、技術革新がもたらした旧産業と新産業の隔たりなので、“完全なる解決”は殆ど不可能に近いものがあります。だとすれば次期大統領選挙を制するために、リベラル政策を加速させ、多様性のアイコンであるハリス氏が当選しやすい環境を整えることの方が民主党にとっては合理的でしょう。実際にバイデン氏自身は4年後82歳ですので、2期目の86歳まで続ける可能性は低いと思われます。

 

■米中情勢から導く本質回帰

 また、このリベラル路線は対中政策で唯一の落としどころとなる可能性があります。独裁国家として“China risk”が存在することには全ての国が同意するところでしょう。他方で、威勢よく中国排除論を唱えたとしても、中国が人口数第1位(約14億人)、GDP第2位、GFP(国別軍事力ランク Global Fire Power)第3位、国家面積第4位の大国でもあることも事実で更に、各国との経済的相互依存関係が構築されていることを鑑みれば理想論でしかありません。かといって、中国の民主化も夢の世界であることは香港問題や台湾への圧力で自明のものです。

 

 結局、中国とは協調する将来を前提として、必要最低限の国際秩序に批准させるしかありません。トランプ氏はそれを目標に経済圧力を行いましたが、西側諸国との連携まで乱してしまったので結果に繋げることが困難となってしまいました。バイデン政権はこの一部(安全保障)は踏襲しつつ、反トランプ色を強めるためにリベラル政策での圧力を行うでしょうし、その方向性の方が西洋諸国のコンセンサスも得やすく実現性は高いように思います。

 

 但し、ここには長年の問題としてジレンマが存在します。それは、西側諸国がどれだけ人権や環境、多様性を規制したとしても中国が批准するとは限らず、結果的に西側諸国の経済発展を阻害し、規制に従わない中国だけが発展するというこれまで通りのシナリオです。

 

 このジレンマ解決には、西側諸国の連携は当然として、発展途上国にも目を向ける(リソースを振り分ける)必要があります。特に中国が未だに開発途上国とされている点もですが、G77(Group 77 / 開発途上国77カ国によるグループ)の主導的支援国として“G77+China”とされている点も踏まえると、開発途上国の取扱や関わり合いが対中政策の要となることが伺えます。しかし、他国にリソースを振り分けるには国内問題(格差や発展)の解消が重要ですので、前述のように情報産業を中心とする社会保障の再分配や規制改革が第一課題として存在することとなります。

 

 つまり西洋諸国と、情報産業規制、リベラル政策、安全保障でコンセンサスを強化しながら、自国内の格差や高齢化に向けたミクロな社会課題を是正し、開発途上国を含む多国間連携を構築する未来がリアリズム的帰結ではないでしょうか。先進国とはいえ、日本を含む各国が課題を内包している現状では、少ないリソースを活かす包括的戦略が最も重要であり、それこそが成長戦略への打開策となります。

■緊急事態宣言の先を見据えて

 これは日本の論争にも同じことがいえます。本項でも再三取り上げていますが、緊急事態宣言は有事ですので、有事対応として少ない医療リソースを最大限に活かすために、一括管理と統合された運営が最も重要な打開策となります。一部の地方自治体で病院の水平分業が実地されていますが、正直に申し上げるとそのような対応は、真っ先に取り組むべき対策であり、未だに一部でしかない点には、行政の“有事意識の低さ” ”批判回避のとりあえず緊急事態宣言”という姿勢が垣間見えてしまいます。

 

 メディアやSNS上で、逼迫に追い込まれた病院の悲惨さとともに、自粛警察による他者批判や陽性者数で一喜一憂する空気感、新生活様式のポジショントークばかりが議論の中心となってしまい、本質的な“リスクを許容する体制作り”や“緊急事態宣言後の社会構築”に議論が進みません。現状では、どの産業、どの階層の人が一番最初に悲鳴を上げるのかババ抜きをしているような状況です。

 

 このような“何を信じるのか”といった宗教論争やポジショントークよりも、緊急事態であることを最大限に利用して、マイナンバーと銀行口座の紐付けや、行政のリモート化、医療や教育のオンライン化など、既得権益への切り込み、国民の感情的抵抗意識への説得、各種規制緩和へと論調を高めてはどうかと思います。また、高齢化に伴う社会保障費対策としてワクチン接種の奨励を行うには絶好の機会です。マイナンバーと銀行口座を紐つけるだけで行政の処理コストは大幅に削減され、脱税防止による税収増加そして給付関連の迅速化が進むように、国民のメリットと国家の成長戦略を考えた政策を組み込めるタイミングにあるということです。

 

 勿論、それほど単純ではありませんが、緊急事態宣言によって国民の私権制限が野党やメディアの反対もなく、これほどまでに成立しているのであれば一層のこと、将来の遺産になる規制緩和や改革を便乗させる方が、延命処置(緊急事態宣言)による国民の犠牲が報われるのではないでしょうか。この点だけを見ると、政権公約を確実に進めている菅首相であることもメリットとなります。



 本日はここまでです。米国の方針と対中政策へ向けた世界の潮流、そして世界の潮流にのって日本の成長戦略を構築するために今、日本国内で本当に議論すべきテーマについて考察を行いました。緊急事態宣言の問題点は、何度となく指摘しましたがそれでも変わることなく実施され続けるのであれば、それを活かして何を遺せるのかが重要となるフェーズに立っています。

 

 今後、終身雇用が崩壊し優秀な人材だけが複数のプロジェクトを請負い、多数の余剰人材が発生し更に、省人化の波と高齢化の波も重なれば、現行の制度設計に歪みが生まれることは想定されます。“その時”が訪れてから議論を始めても遅いことは今回の感染症やデジタル改革で痛いほど身に染みている筈です。私たちは、SNS上の"クソの投げ合い"やメディアの煽りに踊らされず、先を見据えて協調可能な議論に移るタイミングでしょう。

 

 最後に私の大切にしている言葉を添えます(日本語訳は超訳なので英訳も添えます)。 

 

 "愚者は経験から学び、賢者は歴史から学ぶ"

 

  "Fools say they learn from experience; I prefer to learn from the experience of others."

                             - Otto von Bismarck

 

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Jeyaratnam CaniceusによるPixabayからの画像



-出典・参考-

・2021 Military Strength Ranking

・State of World Population 2020

・フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』国の面積順リスト

・Emissions by Country / EPA(アメリカ合衆国環境保護庁)

"米国の暴動と緊急事態宣言が導く「変容する民主主義。」"

 黒川 和嗣(くろかわ かづし)です。あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。さて、昨年最後のコラムでは“溶解する民主主義”と題して、米国大統領選挙と大阪都構想の2つの選挙について、非民主主義国家の台頭について、民主主義の将来設計について、そして日本の民主主義を溶かす3つの幻想についてと全4項に亘って考察を行いました。これで概ね、民主主義の現状について触れることができたかと思っていたのですが、新年早々に、暴徒による米国国会議事堂襲撃という非常にショッキングな出来事と、緊急事態宣言の再発令という2つの事象が加えられることとなりました。

 

 特に米国の国会議事堂襲撃事件は、緊急事態宣言と相まったこともあり日本ではあまり大きな注目を集めていないように思いますが、民主主義国家を代表する大国の現職大統領自ら、支持層を焚き付けて国会議事堂へ進行させ、その集団が暴徒として議事堂内に侵入、破壊行為を行ったことには、西側諸国が抱える大きな転換点を顕在化した出来事でした。

 

 正に民主主義の溶解とも取れる事象ではありますがその反面、国民の自由意志、発言や行動を尊重してきた民主主義にとっては元々、内包されてきたリスクでもあります。これは日本の緊急事態宣言も同様で、“準戦時下ではない平時をベースにした対応”となってしまっている問題点は民主主義が内包する民意、ロビー団体、法的抑止力が障害となってしまっています。なので、民主主義の崩壊だと煽る必要性もないのですが、その形が変わりつつあり、民主主義の変容についての分析と議論は必要にあるかと思います。

 

 前回までの“溶解する民主主義。”では、あり方の議論について考察したので、今回は直近の事象を元に、短中期的な現状分析を行いたいと思います。

「溶解する民主主義。」

第1項 "大統領選と都構想の先に"

第2項 "環境と人権を征する中国覇権"

第3項 "江戸の匂いを漂わせる、令和版「民主主義」"

第4項 "民主主義を溶かす 3つの幻想"

 

緊急事態宣言の論点整理

 緊急事態宣言は再三触れてきたテーマなので対策や内容如何はさておき、現在の議論では複数の問題点が混在し本質を見えにくくしてしまっています。混在する問題の本質は、 “緊急事態宣言が有事(準戦時下)なのか平時なのか”、 “対策局面が感染拡大局面なのか医療崩壊局面なのか”、“医療崩壊の内訳が一部なのか全体なのか”、 “命を守る行動は若年層にとっての命なのか高齢者にとっての命なのか”、そして “感染対策目標が平時の医療を守ることなのか日本社会を守ことなのか”などです。

 

 勿論、前提として必ずしも上記の内容が対立構造であるというわけではありません。感染拡大と医療崩壊は並行して訪れるものです。但し、感染拡大局面であれば医療リソースを拡充することで負担を緩和しながら社会も自走できるでしょうし、医療崩壊の局面であれば、それは社会活動を止めるか、命のトリアージを行うこととなるでしょう。このように上記のどちら側を軸にして議論をするのかで主張や対策の見方が大きく異なります。

 

 この視点で見ると、緊急事態宣言は有事ですので、有事対応として行政は権限を強化すべきですし、本当に医療崩壊が始まっているのであれば、国民の行動規制を行うことも理にかなっています。しかし、その次の、“医療崩壊の内訳が一部なのか全体なのか”を鑑みると、日本の医療リソースや準戦時下として医療制度への介入を行っていない点では、有事対応とも呼べませんし、国民へ負担を強いるにはまだ政府の努力不足であるようにも見えます。

 

 何より、ここが一番大切でありながら論点がズレてしまっている本質なのですが、“感染対策目標が平時の医療を守ることなのか日本社会を守ことなのか”でしょう。確かに日本医師会の“行政に介入してほしくない”や“開業医の経営や従業員を守りたい”、“超法的な介入によって不用意な混乱を避けたい”などの旨も理解は示しますが、感染症対策の本質は日本の社会全体への損傷を最小限に抑えることにあった筈です。

 

 だとすれば、以前から申し上げているように、準戦時下として医療体制に行政が介入しながら広域連合を組み、医療リソースを確保した上で、局所的な国民の行動規制や指定感染症などの関連規制の緩和を柔軟に行うこと、そして無駄が発生しないワクチンのトレーサビリティーを構築し、接種奨励に向けたインセンティブ付けが必要なことでしょう。

 

 今、Twitterやワイドショーで行われる議論には、この本質が全て混在して、人々を感情論、身耳障りの良い方向か、威勢のいい方向に偏ってしまっているように思います。結局のところ、耳障りの良い命を守る緊急事態宣言などといっても、威勢よく感染症を風邪と同等だといっても、割を食うのは現役世代の若年層と重症リスクの高い高齢者層の国民なのです。

 

■民主主義のボトルネック

 とはいえ、私が愚考して提案できる程度の理論は、政府中枢でも当然ながら議論なされているでしょう。では、何が障害になって対策や情報発信が曖昧になってしまっているのかについて考察を行っておく必要があります。

 

 考えられる要素でいえば、一つ目はメディアに扇動された国民感情が圧力として緊急事態宣言や比較的強い対策に作用しているでしょう(詳細は以前の記事をご覧ください“国民感情が引き起こす作用”)。ここで注意が必要なのは、正規雇用と非正規雇用、現役世代と非現役世代、ICT(情報通信技術)企業とサービス業などでは大きく意見は異なり、一概に国民といっても全国民の総意ではありません。このバランスを取ることが政治の役割だったのですが、前回に指摘したような政治の役割が、氾濫する情報によって変容してしまった結果といえます。

 

 さらに、有権者としての投票率や組織の支持層が高齢者中心である観点からすると、命を守る行動とは=高齢者を守る行動となり、こちらもまたバランスが片方へ偏る原因となってしまっています。

 

 二つ目が、日本医師会の存在でしょう。日本医師会は日本医師連盟という政治連盟を組織しており、自民党の支持母体でもあります。これは陰謀論として“日本医師会が悪意を持って感染症対策を阻害している”というとんでも話ではなく、ロビー団体として少なからず判断への影響を持っていてもおかしくはない、ということです。日本ではロビー団体を悪く捉えがちですが、民主主義は常にどこかの組織を代表する人材が運営しているものなので、忖度やロビー活動はあって然るべきなのです。ただ、“有事”とするならばそこにも切り込んでいくべきだとは思っています。

 

 そして一番のボトルネックは“戦後レジーム”です。こちらも前回の記事で指摘しましたが、日本は戦後、“永遠の平時を維持する”とされる幻想を醸造してしまい、有事に備える思考(制度設計)が抜け落ちてしまいました。それは国家運営に限らず、国民やメディアの有事アレルギーが、主権国家では当然の権利であり、統治機構としては当然の義務である“有事に備える思考”をセンシティブ(繊細)なテーマにしてしまいました。

 

 これらの、国民感情、ロビー団体の存在、戦後レジームが、感染症対策の選択肢を狭めている要因と思われます。私たちは単に、政権批判や感情論に流されるのではなく、扇動されないためにもリテラシー教育や二大政党制の確立などで世論の意見を“国益を反映した政策”へと昇華し、一方のロビー団体が強くならないように各々が声を上げ、有事は常に存在することを念頭に戦後レジームと向き合うメンタリティを獲得する必要があります。それでこそ、民主主義の成熟といえるのではないでしょうか。




■米国大統領選挙の暴動

 こちらも、国民感情が作用した、大きな事件です。流石のトランプ大統領も後に暴徒を批判し、政権以降に協力する旨を表明しましたが、時既に遅しであることは間違いないでしょう。B.L.M.運動と同じ人物や組織が関与し、トランプ大統領がテロ組織として指摘していたことは事実ですが、根本的に現職の大統領が支持者の集団を扇動し議事堂にまで進行し、その後の暴徒を愛国者だとTweetしたことには、とてもではありませんが擁護できないものがあります。

 

 確かに選挙制度に不正はあったかもしれません、しかし民主主義の手順を持って行われた選挙と、その不正の是非を問う司法と、最終的な結果を下す議会が存在する民主主義国家に於いて、暴力という行為は認められません。勿論、歴史的に暴力によって勝ち取ってきた民主主義の権利は存在しますが、時代性や民主主義の成熟度合い、慣習を鑑みれば今回の暴動を正当化するには些か無理があるように感じます。 

 

 2024年の大統領選挙にトランプ氏が出馬するシナリオは薄れたと思いますが、今後もこの火薬庫を米国が抱え続けるとすれば、SNSアカウントの停止にも一定の理解は示せます。ただ、そものもの原因が2016年以前の分断を起点としていると考えれば、この動きがかえってトランプ支持層の孤立化を強め、共和党の“トランプ化”及び米国の分断が深まるのではないかと懸念も存在します。

 

 何より今回の事案は、米国と対立する各国にとってこれほど望ましい結果はなかったでしょう。米国内で米国民によって民主主義が否定され、国力の衰退を喧伝してしまったのですから。特に今回は暴動の裏で、香港では約50人の民主派が国家転覆罪として逮捕されました。本来であれば人権政策を重視するバイデン次期大統領は、大きく批判を表明するところですが、足元が崩れかかっている状態では、説得力は全くなく、バイデン政権にとって米国の優位性や影響力が損なわれるスタートとなってしまいました。

 

 日本にも過剰なまでのトランプ支持者も存在しますが、バイデン政権が親中派かどうかより、米国の影響力が加速度的に弱まっている点に問題を感じています。とはいえ、以前から指摘しているように、中国の台頭やインドが日本のGDPを抜く将来が既に差し迫っている状態で、米国に頼るだけではなく、協力関係を強化しつつ、他の西側諸国や東アジア地域との連携を強化することがより重要であることは変わらず、それが確信として日本を含む各国に広がったものでしょう。


 

 本日はここまでです。"民主主義を溶かす3つの幻想"と題したテーマの中で、民主主義が“政治の素人化”によって変容しつつある旨を指摘しましたが、日本の緊急事態宣言と米国の国会議事堂暴動はそれを体現した出来事であるように思います。溶解とまではいかないまでも、民主主義が正しく機能しているが故に起きた問題として、変容が始まっていると思います。

 

 労働環境や生活様式だけではなく、国家体制までもが変化を求められる時代では、一人一人がリテラシーとして本質を考え、共有し、発言する世界線の重要度がより高まってくるでしょう。YouTubeを初め、書籍などでも知識系が勃興していることにも、その影響があるように思います。私自身も拙いながら、一人の人として、読者の皆さんと意見の共有や議論を深められるように一緒に歩めればと考えています。

 

 では、本年もよろしくお願いします。


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