勾玉日記

黒川 和嗣のブログです。

"ディストピア的出口戦略「国民感情が引き起こす作用」2/4"

 黒川 和嗣(くろかわ かづし)です。先週は小池都知事の記者会見、安倍首相の記者会見と、注目すべきポイントがいくつかありました。小池都知事に於いては”ロックダウン”にも言及していましたが、実際のところ検証はされずに言葉だけが一人歩きをしている印象でした。豊洲問題を彷彿とさせた方もいたのではないでしょうか。安倍首相の会見では可能な限り明確に現状について言及していた印象です。”自粛”に対する補償不足批判も重々承知の上でしょうが、現行システムではあのラインがギリギリの表現だと思います。ただ、一点だけ気がかりな部分として、自粛に対する医学的知見を共有して頂きたかったです。当然、"これならOK"と線引きを行うことで、本来は外出禁止にしたいという思惑から外れてしまうので、仕方がないのですが、政府の正式見解として確りと時間を割き共有することで、過剰な不安心理を取り除けるのではないかと思いました。
 さて、今回は前回に続き”国民感情の作用”について考察を行いたいと思います。

「COVID-19 国民感情が引き起こす作用」2/4

第1項 "政策決断に於ける3指標"

第2項 "ディストピア的出口戦略"

第3項 "イシューがTwitterの果てに"

第4項 "自粛という延長と延命の狭間"

 

 

国民感情の作用
 民主政治国家として”3指標(外交、経済、国民感情)”を越える決断を下すことは簡単ではありません。特に”国民感情”は選挙制を採用する以上、政策決定で無視をすることは出来ません。にも拘らずその質は、メディアやSNSのノイジー・マイノリティーやデマのようなネガティブなものに流され、不安心理を無作為に高めてしまう傾向にあります。近年では、ネットの発達と共にその不安心理が、”国民感情”としてより広く伝染してしまっています。勿論、全てのメディアに問題があるとまでは言いませんが、メディアの視聴率重視の経済システムや歴史的に不安を煽る傾向を鑑みると、国民感情に及ぼす影響で多くの問題を孕んでいると、言わざるを得ないでしょう。例えば、今般のマスク問題やトイレットペーパー問題は、メディアの不安心理に晒された”国民感情”が引き起こした作用です。他にも、休校中の職員が外で遊ぶ子供達に”外出禁止”を促したり、まさかの”家庭訪問”を行ったりしてしまう事例までもあります。この点は政府の方針が伝わってないことに問題もありますが、人間は往々にして合理性の無いデマだと理解していても、高まった不安の中では、秩序を失ってしまうものです。だからこそ、メディアでの過剰な報道内容や過剰すぎる自粛論には気を付けなければなりません。
 
 このように、健全とは言い難い”国民感情”が強まれば冒頭でも触れた通り、政治へポピュリズムの力学が働くこととなります。それは、突然の一斉休校やイベントの一律自粛など、経済も外交も置き去りにした”ドラスティック(過激)なパフォーマンス”へと政府を導いてしまいます。ここでの問題は、結果論として対策が良かった悪かったと言うことではなく、前項目での”Trade-off”すら十分に考慮されずに国民感情の悪化が政策を動かしてしまったことにあります。小池都知事の会見でも根拠や実行性のない”ロックダウン”なる言葉だけが語られ、国民感情に寄り添うドラスティックな決断を演出しました。

 

 今、ニュースを観て不安に感じる気持ちは理解できます。しかしそれは、飽くまでも感情であって、政治的合理性や、医学的な根拠でもなく、対策とは分けて考え、発言し、行動しなければならないのではないでしょうか。特に今後はワクチンが量産されるまでの長期間に亘り、この病気と共に社会活動を行わなくてはならないのです。だからこそ”煽られた感情”ではなく、その国ごとに適した内容で持続可能な対策を許容していくことが私達にとって重要な”対策”であり、政治を正しく導くには冷静な国民感情ではないでしょうか。


■ディストピア的出口戦略
 Twitterでも投稿しましたが、現状に於いて憂慮すべきことは”出口”を何処に定めるのかです。ここを押さえておかなければ、ディストピア的選択を国民全員が迫られることとなります。勿論ですが治療の視点で、明確な出口は難しいでしょう。しかし対策の視点では、現実的に考えられる1つのケースとして、重症者の増加が急激にならないように、医学的根拠に基づく公衆衛生対策と医療設備の補強を行い、(最短で1年半程はかかるとされる)ワクチンや他の効力のある薬品を用い、徐々に集団免疫へと導くというシナリオが想定されています。これは例え、一時的に国や地域を(可能かは別として)封鎖し、外出を禁止したりと短期的な大胆な対策を取ったとしても、先に上げた長期化が想定されるシナリオの中で継続させることは現実的に難しく、どのタイミングで、どのような形で、緩和するのかという出口を構築することは必ず求められるのです。

 

 但し、長期化へ向けた出口戦略の議論を躊躇させている”人命より経済優先か”とされるロジックには罠が潜んでいます。医療としては、全面的な長期封鎖が望ましいところでしょうし、当然”人命第一”であることには変わりません。しかし、それを踏まえた上でも、ここで示す”現実的な”出口戦略とは、直近1~2年(ワクチン製造期間を根拠とする)の感染者数と経済減速を如何に緩やかにするのかがポイントとなるので、医療にせよ、経済にせよ、どちらが優先かではなく、人権の問題として感染による逼迫か、経済による逼迫か、それを選ぶようなディストピア的出口戦略を国家が国民に迫るべきではないのです。この長期化が前提であることを理解せず”人命より経済優先か”とするロジックにはまってしまうと、現状の国民感情がそうであるように、批判合戦の世論や責任逃れの政治、ポジショントークのメディアなど、ディストピアが世間に渦巻いてしまうでしょう。このような状況をさせる為にも、出口戦略を構築しておくことが重要なのです。

 

 しかし、本来この医療と経済のバランサーを担う国家が、法的根拠やシステム上の問題、必要以上に煽られた国民感情によって、出口を定められない状態で大胆な対策だけをとってしまっています。それは、何処までの自粛を行い、何処までの経済活動を行い、どの程度の感染症を許容するのかを“国民頼り”にしているということです。これでは日本人の悪平等意識が強く経済合理性を嫌う価値観の元、ディストピア的選択になってしまっても仕方がありません。つまり、少し乱暴な表現になってしまいますが、出口戦略を構築すべき組織が機能不全を起こしている限り、永遠と経済も医療も逼迫した状態を繰り返し、国民の不満は高まり続け、国力は著しく低下していく可能性を内包しています。

 

 だからこそ、せめても私達国民は過度な不安に煽られず、悪平等意識による“弾圧”をするのでもなく、医学的対策を無視した“身勝手な高リスク行動”や“陰謀論”に流されるのでもなく、社会全体が少し冷静になって、"長期的に持続可能な社会活動をどのように構築するか" を考えることが、求められています。

 

 繰り返しになりますが、長期化が現実問題として存在する中で、ポジショントークとは分け、現実的な出口戦略を意識しなければ自らディストピア的出口へと向かうだけでしょう。

 

 

 本日はここまでです。冒頭の小池都知事がもたらした”国民感情”がどのように作用したのか、単に自粛ムードになって良かったと結果論に考えるのか、不要な買い占めが起こり必要以上の混乱をもたらしたのではないか。そして、その不安心理が高まった国民感情が、国民自らを”ディストピア的出口”に向かわせてはいないのか。必要な自粛や対策は重要ですが、長期的な社会構成を元に、補償や経済自走も考えていきたいところです。

 

 

 

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