勾玉日記

黒川 和嗣のブログです。

“自走力が変化の世界線で唯一の価値となる「ニヒル的諦めの中で」3/3”

 黒川 和嗣(くろかわ かづし)です。前回から事実や分析、理論よりもエモーショナル(≒感情)を重視する社会ではドラスティックな改革が難しく、ニヒル的諦めに似た世界線の中で “せめて将来に繋ぐべきバトン” を国内外の課題を通して考察してきました。それは、社会活動に於いて絶対的な正解やベストな選択は存在せず “Trade-offによるベター” を選ぶこと、つまり許容の問題だということです。私はくどい程、感染症対策は医療を軸にした有事体制の構築と、個人による予防医療意識、そしてデジタル行政による情報集積機能が鍵を握る旨を指摘してきました。他方で、国民生活に於いては高リスク者層と高リスク業界を除いて持続可能な範囲での対策に留めなければ持続性を失い“広範囲に及ぶ損失”に繋がる可能性があるとも考えています。

 

 今般の“会食問題”も会食を禁止する風潮が長期化を前提とした場合、持続性がなく無理筋でしょう。レストランの感染リスクが高いことは論文でも示されているので、GoToのように“奨励”をする必要はないと思いますが、会食者を見つけては糾弾する“隣組”のような錦の三旗は与るべきではないと思います。元々、会食をしない方や外出を好まない方、QOL(Quality Of Life)に影響がない、仕事と会食の関連性がない方にとっては問題ではありませんが、それ以外の方々にとっては精神的にも経済的にも “持続性のない根性論” であり、隣組の行為は排他的な村八分にしかならないものです。 

 

 さらに、会食問題の批判で見受けられる“オンラインで十分”との意見は、五感的コミュニケーションと事務的コミュニケーションを混同しているように思います。私自身、Skypeによる打ち合わせや私的な対話などを10年前から行っていますし、業務上のコミュニケーションはテキストベースの非同期通信を用いています。これは事務的なコミュニケーションではコンテクスト(文脈)ではなく情報に価値があるためと、私的な対話は物理的距離や時間コストを超える必要性がある“緊急的補助輪”として有用性が高かったためです。しかし、コミュニケーションの中には、空間共有による五感を通した心理的距離、リアルタイムなインタラクティブ性など、五感(コンテクスト)を用いたコミュニケーションが必要とされることもあります(ここが、VRやAR、デジタルコンテンツの障壁となっている最大の要素です)。

 

 安易に“オンラインで十分” や “会食警察” を容認する姿勢を蔓延させることはスキャンダルを求める層にとってプラスであっても、長期的感染症対策や個人のQOL、社会活動にとってマイナスとなる作用も考慮しておかなければなりません。

 

 さて、前回と前々回では国内外の課題を俯瞰して考察しましたが、今回は国内のより身近なテーマ、労働市場の現状とそれに伴うライフスタイルのパーソナライズ、個人の自走力について考察したいと思います。

 

「ニヒル的諦めの中で」3/3

第1項 "エモーショナライゼーションされる日本"

第2項 "国際社会から眺めるニヒル的諦めの中で"

第3項 "自走力が変化の世界線で唯一の価値となる" 

 

■デッドロックへ向かう働き方改革

 諦めの中でも何かしらの成果を残すことをテーマにしてきましたが、今般の労働市場ではネガティブな“現状維持”を残そうとしています。例えば働き方改革でも、会社に縛られずに自由な働き方ができるとされていますが実際は、定年は引き上げられ、所定労働時間は減少し、テクノロジー投資と人件費のコスト競争に晒される “生涯現役を前提とした自己責任論”の改革となっています。余剰人材の人材シェアや日雇い労働に近い名ばかりの個人事業などは、解雇規制を維持した状態で人件費を削減するための抜け道であり、シェア産業やフレックス制と、ニュースタイルのように謳われていますが、都合のいい人材派遣でしかありません。

 

 もちろん、私も個人的に派遣業とは繋がりがありますので派遣が悪いわけではありませんし、価値観もリバタリアンに近いので、人材の流動性や自由経済には大いに賛成です。ただ、本来であれば解雇規制、終身雇用、年功序列、新卒一括採用など企業の生産性を損ねる要素を排除し健全な進化圧を促しつつ、社会保障の裾野を広げて包括的にライフスタイルの選択を増やす機会を設けることがニュースタイルであり、現行の低賃金、長時間労働、個人の意思が反映されない派遣労働が“輝かしい働き方改革”ではないということです。

 

 今のままでは、企業が社会保障を担っているようなものなので、企業の生産性は向上せずに派遣人材の低賃金化は進むでしょう。さらに、低成長になる企業を日銀や行政の補助金で支えて延命しているのですから、冒頭で触れたような輝かしい働き方改革とは非なるものです。特に、DXが浸透すると優秀な人材が複数社を掛け持つ寡占状態に向かうことは目に見えているので、仮にどこかで市場原理の淘汰が始まれば、現行の派遣業でも正社員でも双方で深い傷を負う層が発生する筈です。

 

 恐らく平成の30年間がそうだったように、片方には曖昧な現状維持を持ちながら、もう片方で場繋ぎ的な変化を試みるのでしょう。しかし、加速度的に進化するグローバルなテクノロジー社会で平成的延命処置が通用するほど甘くはないものです。少ないリソースで最大限の生産性を目指すことが今、日本に求められる成長戦略だとすれば、本ブログでも取り上げてきたベーシックインカムなどが重要になるのですが、ドラスティックな改革が難しい日本では、実現性の低いところにあります。

 

 このようなデッドロックへ向かう“諦めの中で”生きていくには、せめても個人の価値観を変更し、社会変化に頼らないライフスタイルを構築することが必要です。

 

■価値観のパーソナライズ

 そこで先ずは自身の価値観を、“皆んながしていることをする”という同質的大衆化を捨て、自分自身にとって得意なことやライフスタイルにあった生活環境などを基準とする個人化、つまり“価値観のパーソナライズ化”を進めることが重要となります。周囲と同じことは当座的選択として正解のように映りますが、それは前述の延命処置でしかなく、市場原理の力学が作用すると淘汰の対象となり、また新たな自分のポジションがリセットされるリスクを秘めています。個人という軸を持ってライフスタイルを柔軟に変化させることは、少ないリソースで利益の最大化を目指す理想的な生き方ともいえるのではないでしょうか。

 

 例えば、居住場所を都市部から地方に移すだけでもコスト面を抑えつつ、都市部より人口比に対する人材価値を上げることができます(もちろん人材の希少価値が上がる反面、市場も縮小するので業種的選択肢は減少しますが)。また、延命処置的な職業選択であったとしても自身が得意とする軸があれば、生活コストを下げるだけで年齢やキャリアなどの同質的価値基準から脱却することもできます。

 

 “田舎で自由な生活”といえば60年代のヒッピーを彷彿とさせますが、何も資本主義や近代文明を捨てることを推奨しているわけではありません。日本の地方にはグローバルでも通用するまだ認知度の低い伝統工芸や農産物、文化的遺産が数多く存在し、再定義するだけでも市場経済の中で大きな存在感を発揮できるでしょう。ワインで有名なフランスのブルゴーニュが地方だからといって非資本経済地域かといえばそうでないことと同じです。

 

 本当の働き方改革も包括的な社会保障改革も進まない“ニヒル的諦めの中で”、その場凌ぎの同質的大衆化から離れ、年齢や性別、キャリアに囚われない“パーソナライズ化”が、せめてもの成果となります。

 

 ただ、人間は社会性を伴う動物ですので相対評価を得るために評価され易い同質化を安易に求めてしまう習性もあります。文明社会を生きる上で捨てることのできない社会性や相対性を維持した状態で、安易な同質化に陥らないためには価値観のパーソナライズ化だけではなく能動的に生きる “自走力” も必要です。

 

■自走力を軸とする生き方

 “自走力”とは、つまり自分の働き方や生活スタイル、様々な取捨選択を主体的に管理し、仕事や情報を他者から与られる受動的人材ではなく、生み出す側の能動的人材として生きる力です。平たく表現すると“自分で考え行動する力”を指し、変化の激しい時代を生きる上では世代や業種を越えて多くの人に求められる能力です。

 

 一昔前までは一部人材(フリーランス、自営業者、経営者など)に限られ、一般的に求められるものではなかったでしょう。軍事や工業社会においては受動人材が重宝される社会システムだったので、教育からライフスタイルまでもが自走より同質化を重視してきました。特に日本は異質を嫌う生存本能に留まらず、人種や言語、文化にも大きな差異がなかったため、近代化以前から能動性より受動性を重視した同質化が根強い社会だったと考えられます。しかし、冒頭で触れたように今後、人材流動性が高まれば能動的な自走人材にならなければなりません。

 

 少々、小難しい話になってしまいましたが、この自走力を養うこと自体は、意識さえすればそれほど難しくないことだ考えています。“自分で考え行動する力”を身につけるには“情報を可能な限り正確に取捨選択して生活に活かす”だけだからです。

 

 知識や情報を身につける重要性は多くのビジネス書や自己啓発本で散々取り上げられ、巷では受動的な情報コンテンツに溢れています。ただ、ClubhouseもYouTubeも情報をインプットするだけでは時間を消費しているに過ぎず、同等のアウトプットが伴わなければ能動性、自走力を獲得することには繋がらないものです。仕入れた情報に対してフィルターバブルがないか、ポジショントークはないか、エビデンスの正確さ、受益構造など、多角的に事象観測を行い、自分の言葉で責任を持って考えをまとめること。

 

 もちろん、全ての人が専門家である必要もないので、厳密な研究調査などは不要でしょう。しかし、悪意ある誘導や知識の欠如によるエモーショナライゼーションされた考えに傾倒しないためにも、情報の取捨選択がリテラシーへと繋がり、そしてそのリテラシーが“自走力”を養う源となる筈です。



 この1年間、私たちは多くのものを失い、あるいは得たりと急激な変化に晒され続けるも、世論や政策は必ずしも合理的な成長戦略を重んじるわけではないことが、よく見えてきたと思います。それに多くの方々が求めている、資格やキャリアもフォロワー数も、次に来る変化に抗えるような普遍性はありません。このような時代を生きなければならない私たちは、“ニヒル的諦め”に打ち負かされず、自身の力で“自走人材”として生きる力を身につける他ないのかもしれません。

 

 価値観のパーソナル化に基づいた “自走力” が、変化の世界線で唯一対応できる力ではないでしょうか。

 

 本日はここまでです。次回はテーマを変えて考察を行いたいと思います。

 

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[黒川 和嗣(Kazushi Kurokawa)Twitter ]

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 -出典・参考-

Covid Superspreader Risk Is Linked to Restaurants, Gyms, Hotels - Bloomberg