勾玉日記

黒川 和嗣のブログです。

"フォロワー数ビジネスの終焉から「発酵経済」の幕開け"

 黒川 和嗣(くろかわ かづし)です。緊急事態宣言が解除され、感染症への関心が減少するなか、今度は自粛による心理的負担がインターネット上で ”誹謗中傷” などの形となり顕在化しています。この問題は過去にもありましたが当時に比べ、現代ではネット社会への参加者の総数が全く異なる上に、SNSがもたらす”社会的価値”も遥かに高くなっています。それに対して、教育現場でのIT活用は殆どと言っていいほど進んでおらず、リテラシー教育も未熟な状態であると言わざるを得ません。道徳教育や法的教育だけでは、誹謗中傷の重みやフェイクニュースへの対処などには、結び付き難いのではないでしょうか。 
 今後、前回までの"発酵経済と五感的解像度"で触れたように、世界規模で仮想需要社会が訪れようとしている中、いつまでもネット社会を”サブカルチャー”的立ち位置に置いておくことは出来ないでしょう。今回は、このネット社会のあり方を考察したいと思います。

 

■溶解するパブリックとプライベート
 制度設計などの前に、ネット社会の大前提である価値観を再確認したいと思います。それはプライベートという概念がなくなりつつある、ということです。システム上の問題だけではなく、LINEやblog、Twitterなどでも他者に繋がっており、それは主語が"自分"なだけであって、大通りに展示をしていることと同義なのです。だからこそ、Instagramなどでも映える写真を投稿したり、Twitterでもバズらせて"いいね数"を稼いだりすることが成立するのです。

 特に冒頭でも触れましたが、利用者数が増加した現代のSNSには、批判する側も、される側もプライベートは存在せずネット社会とリアル社会がそのまま繋がっていると、考える必要があります。

 少し抽象的になってしまいましたが、デジタルネイティブな方々には直感的に理解頂けるのではと思います。私自身は、幼少の頃よりネット社会と繋がっていたので、友人と話す時に罵詈雑言を言わないのと同じく、ネット社会でも発言には注意をしています。それは明らかにネット社会を、"閉ざされた空間"ではなく、"膨大なパブリック空間"だと認識しているからです。


 この価値観はGDPRなどの規制にも通じるもので、ネット社会がプライベートな空間では無いからこそ、"個人情報などのプライバシーをどのように守るのか"が議論されているのです。つまり、匿名にしたりブロック機能を用いたりしたとしても、パブリック空間であることに変わらず、大前提としてその認識を利用者全体が持つ必要があります。

 

■法規制と公認制
 さて、ネット社会がパブリック空間であるとの前提を踏まえ、利用者の増加とネットの社会的重要性を鑑みると実社会と同じく、大枠としては誹謗中傷者に対する罰則規制などは必要でしょう。"死ね"や"殺す"といった脅迫罪に相当する表現はプラットフォームサイドでスクリーニングを行い、訴訟を行うための証拠規定など最低限のルールセットは必要になる可能性があります。

 しかし、上記の内容はtrade-offの範囲だとしても、私個人としては過剰な規制には慎重派ですし、実際に規制を行っても鼬ごっこをしてきた歴史があるので、根絶されることはないと思います。そうなると、有象無象のコミュニティーと限定されたコミュニティーで分ける、ライセンス制と似た"公認"若しくは"エントリーバリア"の設定しかないように思います。

 私はこういった"規制問題"に対しては、米国の1920年に施行された"禁酒法現象"をモデルケースに考えます。米国の禁酒法では法的に規制を強化した結果、闇市場が活性化し粗悪な製造によって人が死に、更にマフィアの資金源となってしまった為、後に廃案となった歴史があります。この歴史は人間の行動制限が如何に難しく、管理市場による(健康を害するお酒を公認する)倫理矛盾のリスク以上に、闇市場のリスクが遥かに高い点などを顕在化させたケーススタディだったと思います。
 つまりTwitterでも、コミュニケーションはサロンのような閉じたコミュニティーで行う"ユーザー間の公認"空間と、最低限のスクリーニングだけを行った空間に分けることとなります。仮に、それ以上を求めるのであれば、プラットフォーム側で厳しいスクリーニングを行う、新たなサービスを活用する形になるでしょう。

 このように分析してみると、SNSの性質上、ユーザーの良心、法的罰則以外には、"アクセスを閉ざす"しかないもので、鼬ごっこをしている理由が垣間見得るようです。では、せもてもユーザーの思考を変えるために、"SNSの信用経済"について簡単に触れたいと思います。

 


■信用経済の変化
 Twitterでも指摘したのですが、今まではイイね数やリプライ数、フォロワー数などが=キャッシュ(信用)に変換さていたので、批判や炎上をツールとして "稼ぐ"人が増えてしまいました。しかし、既に”信用経済”のフェーズはフォロワー数より、"言動の信頼度" に変わっていることに多くの人が気が付いていない、という話です。

 今般は利用者の数が増え、年齢層の幅も広がったことにより単なる"解説や評論"などの情報価値は薄れ、フォロワー数ですら広告指標としては機能していますが、信用経済としてはインフレ状態にあり、価値を失っているのです。つまり、市場として利用者などの”数”が供給過多にある現状、安易な数字稼ぎに何の価値もなく、その人の言動や振るまい、人間性などの "質" にこそ価値があります。
 冒頭でも述べたように、今後、仮想需要社会が発展しアバターなど、デジタル社会が身体性に近づくにつれ、この質の価値は、より高等していくでしょう。フォロワー数が多くても一貫性もなく、批判してばかりや、大声で罵る人とは、身体的距離を保ちた心理がネット上でも加速するでしょう。

 

 

 本日はここまでです。先ず、批判をする側も批判をされる側も、"ネット社会はパブリック空間"であることを大前提とするリテラシーは教育が必要です。その上で、脅迫罪など犯罪性のある内容は、プラットフォーム側で対応をし、ユーザー側で許容、ブロック、訴訟の選択を持てる状態になるように環境整備を行い、よりゼロリスクを目指すのであれば、限られたコミュニティーだけでの交流しかしない方向しかないでしょう。

 制度設計ではこの辺りが、表現の自由やイノベーションなどとの"trade-offの限界"だと思います。これ以上は、イノベーションや芸術、思想への息苦しさに繋がりそうです。後は、先に挙げたように、実社会で誹謗中傷を行わない事と同じく、ネット社会でも信用を守るインセンティブとして、信用経済が"数字"から"質"に移行している事を周知するしかないでしょうか。


 因みに本稿では敢えて、心理的側面や精神の問題には触れずに、ネット社会の構成に限定しています。社会に於ける、いじめたい心理などの"心の問題"は長期間にわたり、人間社会が付き合わなければいけない課題ではありますが、少なくとも本稿で取り上げた内容は、仮想需要が到来するまでにルールセットと意識変容が必要な分野ではないかと考えているからです。

 いじめや誹謗中傷は悪ではありますが、性善説に頼るだけではなく、お互いが自覚しつつルールセットを構築することが重要なのではないでしょうか。

 

 

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[黒川 和嗣(Kazushi Kurokawa)Twitter ]

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