勾玉日記

黒川 和嗣のブログです。

”イシューがTwitterの果てに「国民感情が引き起こす作用」3/4”

 黒川 和嗣(くろかわ かづし)です。今回は、Social distanceによる作用として[五感的解像度とテクスチャー]をテーマに綴ろうと思ったのですが、パチンコ騒動や疫学者以外は発言禁止といったような、言論の混沌化が気になり、そちらについて綴ろうと思います。

  近頃Twitterでは、各方面の専門家、政治家、一般ユーザーなどが要り混じり”玉石混交”な議論がなされるようになりました。これは以前まで、感染症への恐怖心が強く”兎にも角にも自粛”といった論調から、迫り来る経済への不安や医療崩壊を前に、国家システムや、各種制度欠陥など”現実的な課題”が浮き彫りになってきたからでしょう。未知だからこそ、一辺倒な政策であっても迷いなく享受できましたが、自身の生活に関わることとなれば、話は別といったところでしょうか。私はこの現象を、ある一面では歓迎している反面、ある一面では心地よくない気持ちを抱いています。

  感染症は疫学の範囲だけではなく、紛れもなく社会全体の課題です。このような多角的視座が必要な”社会課題”を解決するに当たっては、疫学的知見は当然ながら、医療そのものや、社会学、経済学、政治、法律、科学、文化、ICT技術など、数多くの知見を持ち寄ることが重要となります。その意味では先の”玉石混交な状態”も歓迎したいと考える側面です。しかし、各種専門家が提議する問題のコンテクスト(文脈)を置き去りにして、違う分野に持ち込み、発信者の意図とは異なる点で論争を始めてしまうのは、些か”不毛さ”を生むのではないか、と感じてしまう側面があります。特に、マウンティングやポジショントークの伴う議論は、認識の齟齬(そご)を埋めることなく、終わってしまう傾向にあるので厄介です。
 

 文字数制限のあるTwitterでは限界もありますが、こんな時だからこそ私自身を含め各々が、コンテクストを共有し、齟齬を埋め合うような議論を心掛ける社会でありたいと思います。今回は"イシューがTwitterの果てに"失われないよう、問題の前提や本質を分析したいと思います。

「COVID-19 国民感情が引き起こす作用」3/4

第1項 "政策決断に於ける3指標"

第2項 "ディストピア的出口戦略"

第3項 "イシューがTwitterの果てに"

第4項 "自粛という延長と延命の狭間"

 

 

■前提とされる”KPI”
 やはりコロナショックのポイントは”長期化”でしょう。経済活動の自粛も、医療体制、教育体制も個人のQOLも、耐えられないことは明白です。つまり、医療現場の設備拡充と、感染症対策の徹底、ピンポイントでの自粛(公的支援込み)、経済の自走化が最終的な目的地となると考えられます。この軸から外れて”過度な自粛”や”身勝手な活動” ”無策な自由経済”を持ち出すと、目的地を見失い、不毛な議論になってしまいます。

  まず、今回の最大の懸念材料は感染による死者数ではなく、医療崩壊による死者数です。なので、自由経済などではなく国策として民間企業を用い、備品の増産、省人化システムの導入、観光や飲食など余剰人材の活用を早期に進める必要があります。ここを崩してしまうと、社会不安に繋がるので、経済対策を行っても意味がありません。一時的に感染者数が減少したとしても、2次、3次があると想定し、医療機関の拡充は必須です。同時に感染症対策として、キスやハグ、身体の密着など性行為に準ずる接待を伴う業種、換気やSocial distanceの維持が難しく飛沫の可能性がある業種など、発生事例を元に、感染リスクのリスト上位に入る業界は公的支援と抱き合わせで規制が必要でしょう。現行法に触れる可能性がある業態であれば、支援なしでの封鎖もあり得ると思います。

  この”感染症リスクのリスト”は不確定要素がある以上、絶対値ではありませんが、疫学的データがある程度出てきた現在では、制作は可能だと考えます。後は、地域間の取り組みで、ピンポイントの都道府県で対策を行うのではなく、広域連合として取り組むことが重要となります。これにより県外への移動を規制し易く、医療リソースの共有にも繋がります。その上で、社会全体が手洗い、アルコール消毒、マスク、Social distance、テレワーク、時差通勤、キャッシュレス、体不調での外出自粛を徹底的に行うことが求められます。行政のIT化を含め、ここで不足するリソースには公的支援が必要となる可能性があります。

 

 これらの対策により、冒頭で提案した経済活動の自走や、医療体制の確保も実現可能ではないでしょうか。勿論、この対策には性善説的希望は存在します。しかし、社会は常に”法律を守る”という、国民の善意に委ねられており、それはコロナ禍でも同様です。ここで重要なのは、規制を逸脱する、感染症が発生する、新たなリスクが発見されるなど、事態が変化する中でその都度、柔軟に対処する姿勢です。ゼロリスクを軸に一律でコンセンサスを取ることは、民主主義の根幹でもありますが、有事の社会では現実的ではありません。規制と緩和、選択と集中、Trade-off、このようなメリハリと柔軟性がなければ社会は成立しないものです。

 

 

■イシューがTwitterの果てに
 ここまでの内容が、不毛な議論を避けるための基本的な前提であり、必要な共通認識となるでしょう。次は、前述の対策を行うに当たっての問題点です。例えば、財源問題、医療品への審査基準、自粛(規制)への権限と責任の所在、私権の制限範囲、感染症対策の具体的規則、判子や個人情報保護の問題などが挙げられると思います。この辺りが昨今、識者の間で衝突している課題です。パチンコ騒動などは正に”自粛(規制)への権限と責任の所在”と”私権(又は人権等)の制限範囲”でしょうし、公的支援は”財源問題”であり、過度な自粛は”感染症対策の具体的規則”です。

 つまり、前提の出口は決まっているのだから、これらの問題についてピンポイントに議論や批判を行うことが重要なのです。パチンコの違法問題やギャンブル依存症、外資や警察との癒着などは根本的な課題とはまた別のことです。

  パチンコ騒動では特措法で店名公表の権限がありますが、同時に責任と私権(人権等)の問題も発生します。権限があるので私権を蔑ろにしても良いのか、というとそうでは有りませんし、私権を守るために感染症リスクを放置しても良いのかともなりません。感染症リスクには、一般の意見ではなく専門家と議論し、前述のTrade-offを用い政治的に総合判断が必要です。合理的根拠もなく、一企業を名指しすることは社会的倫理観を損なう恐れがあります。また、自粛を強要するのであれば補償など責任を明確にしなければなりませんが、地方の首長にその責任を持たせることには疑問が生じます。本来、議論される課題は、こちらではないでしょうか。この軸がぶれているのでTwitterでは、コンテクストが噛み合わない状態にあります。

  民主主義ではこのように多用な視点が生まれる反面、目的以外の課題にも広がり、往々にして話が進まないことが起こります。だからこそ、私を含め各個人が、本質にあるテーマを理解し、議論することが求められるのです。法改正を含め、財源問題や規制基準なども、この”本質”を意識して考察を行いたいと思います。

 


 今回はここまでです。今回このテーマにした理由は、現状のSNS空間を見ていると、医療従事者への差別があるように、抗体検査が広がった先に”抗体差別”が発生し、それが社会進展への障害となるのではないかと懸念しているからです。そうならないためにも齟齬を埋め合う過程で論点整理を行いながらコンテストを読み取っていきたいです。

 

"イシューがTwitterの果てに消えてしまわないように"

 

 

 

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[黒川 和嗣(Kazushi Kurokawa)Twitter ]

 

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