勾玉日記

黒川 和嗣のブログです。

"多角的な事象観測と学校教育の解離"

 黒川 和嗣(くろかわ かづし)です。以前より、個人ブログはいくつか運営をしていましたが、新しくこちらで開設をさせて頂く事となりました。

 プロフィールにも記述している芸術は、【対象(事象)を多角的に観測し、構造を理解すること】が通奏低音として存在していると考えています。そして、私自身と芸術の関係はとても身近なもので、私の祖母は "被服デザイナー" であり、両親は "美容師" 姉弟は "美術教師" でした。鮮明に記憶している体験としては、毎週のようにパリコレのデザインについて、両親と意見を交わし、休日は姉のバレエを鑑賞していた事です。その為か、幼少の頃より”事象解析”が当然となり、小学校の入学前には既に画一化教育への疑問を抱いてしまうような、少し(世間の子供と比べて)異質な価値観を見出していました。

 この画一化教育への疑問を抱いた理由は、合理的な思考を排除し、周りへの同調が善悪の基準であるかのような組織に異様さを感じたことに起因しています。私は前述の通り、多角的に事象を捉える事を習慣としていました。そして現実世界でも多くの事象は常に、幾つものレイヤーにより合理性を持って構成されているものです。自然である風でさえも、気温変化による気圧変動など合理的理由が認められるものです。文明社会は常に自然(Nature)と相反するとは言え、自然の原理原則に従い、画一化不能な多様性を抱えているにも関わらず、合理的な多様性より同調的な画一性を善悪の基準とする教育環境は "異質" と言わざるを得ないでしょう。

 明治の近代化から軍事教育へ、敗戦後の経済成長から工業化教育へ、これまでの社会情勢では上手く機能をしていたと思います。しかし、バブル崩壊後からの画一化教育は、少し乱暴な表現ではありますが、誤解を恐れずに言うと、それまでの「惰性」でしかありません。しかし、教育の現場では私のような多角的な価値観は異質であり、集団の脅威である価値観はあの手この手で淘汰されて行きます。このような淘汰を、9年間という決して短くもない義務教育課程の中で、繰り返し行われると、往々にして多角的な価値観は失われます。しかし社会人になると、どのような職業であっても多くの場合は、事象を俯瞰し解析する能力(多角的価値観)が問われるようになるのです。

 このギャップこそが、撤退産業、地方の衰退、ブラック労働、ハラスメントなど現在の日本が抱える「歪み」に多くの影響を与えているのではないでしょうか。私自身も長く組織マネージメントに関わってきたので、肌で感じていますが、同調圧力を重んじ、従う空気感の中で行動の裁量を決定してしまう組織は、多くの企業や団体でも認められますが、そこには必ず歪みが生じており、これもまた多くの人にネガティブな選択を強いてしまっています。

 私は私の行動により、日本の歪みを打開する、などと傲慢な事は言いませんが、”芸術”の通奏低音である【対象(事象)を多角的に観測し構造を理解する事】をこのブログを通して読者の皆さんと少しでも共有を行い、 "教育と現実" "政治と国民" "経済と社会" のギャップを埋め、少しでもポジティブな選択へ繋げて頂ければ幸いだと感じています。

 随分と長い前置きとなってしまいましたが、今回のブログはこの「多角的価値観」を軸に、私自身の体験や価値観を(不定期ではありますが)綴らせて頂きます。

 

 

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Photo: Feliphe Schiarolli